10-3
幼い頃から私の近くにはいつも真咲がいた。
家が近所で互いの母親の仲が良く、幼稚園も一緒だったので物心がつく前から私たちは互いの家を行き来してよく遊んでいた。
当時から私は勝ち気で行動派であり、それとは真逆で何事にも引っ込み思案だった真咲は私にとって友達というより弟みたいな、いや背丈が低く髪が長くて大人しかった彼のことをむしろ妹のような存在に感じていたと思う。
そのせいだったのだろう。
私は真咲をよく泣かせた。
陰気にボソボソと喋るところや上目遣いに窺い見る目つきが気に入らなくて私はしょっちゅう腹を立てた。
そして私が癇癪を起こすと真咲は決まって体をこわばらせ、それから目蓋に涙を浮かべてうつむいた。
けれど小学三年生の夏休みが明けると真咲の性格は別人のように変わっていた。
新学期の初日、いつものように家に迎えに行くと彼は背筋をスッと伸ばし、堂々と私を見据えて開口一番こう告げたのだ。
「綾香、明日から迎えに来なくていいから」
そのとき私はどうしただろう。
揉めた記憶はないのできっと「あ、そう、分かった」とかなんとか平然と返したのかもしれない。
けれど内心ではいつもオドオドとして私の言いなりだった真咲が突然なんの外連味もなく私を拒絶したことにかなり動揺していたはずだ。
なんとなく憶えているのはその後、真咲が私を引き連れるように数歩先を歩いて登校したこと。
当時の私にとってかなりの屈辱だったかもしれない。
けれどそれよりも私は畏れのような感情を抱いていたように思う。
そしておそらくこう直感していた。
きっとこれは真咲ではなく、真咲の体を乗っ取った誰かだ。
それからずっと私のどこかに真咲に対して違和感を抱いている自分がいる。
図書館での出来事はその私の感覚を裏付ける一端となったかもしれない。
真咲は意識体を本の中に潜り込ませた後、しばらくは眠ったように目を閉じたまま動かなかったが数分が経過した頃、まずは眉間に深い皺が寄り、それから見る見るうちに苦しげな顔つきになり、同時に息遣いも荒くなって、さらにしばらくするとそれに呻き声を上げて胸を掻きむしるような仕草まで加わった。
その様子を目の当たりにした私は真咲を気安くここに連れてきたことを後悔し始め、また不安のあまりつい約束を忘れて真咲の肩へと手を伸ばしかけた、そのときだった。
「ククッ……やめておくがいい」
苦悶の表情を浮かべたまま、真咲の口が動いた。
それは普段の真咲よりも幾分トーンが高く、怪しくせせら笑うような口調だった。
私は何事かと訝しみ、もしかすると苦しみのあまり精神に異常をきたしてしまったのかもしれないと心配になり、再び指先を彼の肩へと向けた。
「聞こえなかったか。貴様が触ると
「だ、誰なの」
指を引いてそう訊くと真咲がゆっくりと顔を上向かせた。
そして真咲の目蓋が開いた瞬間、私は思わず身を仰け反らせた。
その瞳が燃えたつ炎のように紅く揺らいで見えたからだ。
「ふん、誰でも良かろう。じゃが、そういう貴様は綾香というたか」
私はコクリと肯いた。
ここにいるのは間違いなく別人格。
あの小学三年生の夏を境に真咲が変わってしまったのはこの人格が生まれたせいだと直感した。
すると真咲の口元が引き攣るように歪む。
「良い機会じゃ、訊いておこう。綾香よ、貴様いったい此奴をどう思うておるのだ」
「どっ、どうって?」
想定外の質問に私の顔は急激に熱を持った。
そして慌てて周りを見回して私たちの会話が図書委員の彼の耳に届いていないことを確かめた。真咲の体を借りた誰かはそんなことはおかまいなしといった風に声量を上げる。
「男女の仲のことに決まっておろう。真咲の子を孕む覚悟があるのかと聞いておる」
「な、ななななッ……な、なに言ってるの。そ、そんなのあるわけ……」
「ほう、ないのか。ならば、あまり此奴に付き纏うな。
絶句した。
というより頭がショートした。
男女の仲? 子を孕むってどういうこと?
付き合うとかなら分かるけど、そんな剥き出しでストレートな質問、中三女子に答えられるはずもない、というか今そんな問いに答えようとしている場合なのだろうか。
混乱の極みに陥った私がただ顔を赤らめて呆然と立ち尽くしていると、やがて真咲の顔に険しさが戻ってきた。
「真咲め、そろそろ限界じゃな。これしきの
真咲の呼吸が再び荒くなる。
「お、そうじゃ。綾香よ、ひとつ頼みがある」
「な、なに?」
悶絶の表情に唇だけがヘラリと笑った。
「あとで一風堂の栗饅頭を十個買ってこい。そうしたら此奴に付き纏っても良いぞ、ぐふふ……」
次の瞬間、真咲が両手で頭を激しく掻きむしった。
そして顔色が真っ青になり、倒れるように長机に突っ伏してそのまま動かなくなった。
離れたところで図書委員の彼が短い悲鳴を上げた。
私はどうして良いか分からず、机に片頬をくっ付けて真咲の顔を覗き込み、必死で名前を叫び続けた。
そしてしばらくしてようやく私は気がついた。
真咲の背後の床板に件の女子生徒が仰向けに倒れていることを。
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