10-5

 不意にキヨが立ち上がった。

 というより、正確には髪を鷲掴みにされて無理やりに立ち上がらされた。

 けれど両手は顔を覆い、目蓋は閉じられたままだ。


「い、いや……」


 歯の根の噛み合わない口腔からただそれだけ、慄いた声がこぼれ落ちる。

 ガクガクと震える彼女の足は床を踏んではいるものの、自身の体を支える力を保ってはいない。だから髪を掴む手が離れると途端にその場にへたり込んでしまった。

 反射的に顔を覆っていた両手が床に着いた。

 そしてぼんやりとした視界が開く。

 四つん這いになった彼女の目線は床に向けられている。

 いつのまにか室内には明かりが灯されていたようで、そのセピア色の視界にはキヨの胸元から緩く撓んだ飛白かすり着物の襟、彼女の白くほっそりとした二の腕と袖先、そしてうっすらと濡れた煉瓦敷きの床が見えていた。


「どうしたんだ、キヨ。早く食卓に着きなさい」


 頭上から降ってくる男の穏やかな口調は、けれどそこはかとない悍ましさを感じさせる。


「コウジロウがお待ちかねだよ」


 コウジロウ……?

 その疑念に答えるようにすぐ近くで別の誰かの声が聞こえた。

 いや、誰かというよりこれは動物か何かの鳴き声だろうか。


 ブフッ……ブフッ……イダィヨ……ガッ……。


 キヨは両肘と額を湿気じみた床に着け、嗚咽を漏らす。

 すると再び強烈な力で髪が掴み上げられ、今度はそのまま足まで空中に浮いた。

 現れたぼんやりとした視界はどうしてなのか、それまでよりも豊富な色彩に包まれていた。

 そこには片手で軽々とキヨを持ち上げている男の白っぽい服と、その腰のあたりに何者かの頭部の輪郭がうっすらと滲んで見えた。

 それは動物ではなく、やはり人間のように思える。

 顔の左半分がいやに赤黒く見えたが、その視覚を拒絶するようにキヨの瞳がすぐに閉じられたため、それが果たして人の輪郭なのかどうかは俺には確信が持てなかった。

 

「ふむ、仕方がないねえ。私が座らせてあげよう」


 平然とした男の声が低く響いた。

 そして彼女の身体は宙を移動し、やがて無造作に投げ落とされる。

 刹那、頬が激しく何かに打ち付けられキヨが小さく呻いた。

 そして腰は椅子らしき硬質な板に下され、上半身は突っ伏すような形で何かの台に受け止められた。


「顔を上げなさい。コウジロウとご対面だ」


 男がキヨの背後に立った気配があった。

 そしてまた髪が掴まれ、顔が持ち上がる。

 椅子の背板に仰け反った上体が張り付いた。


「ほら、ちゃんと目を開けて見なさい。また少し手を加えてみたんだよ」


 ギギギ……ギヒィ……イダィ……。


 正面から聞こえてくるあの奇妙な声。


 頑なに瞑った彼女の両眼の上目蓋に男の指が触れ、そして無理やりに額の方へと持ち上げられた。

 その強制的に開かれた視界には真っ白なクロスを掛けられた小さなテーブルとその向かい側の席に座る幼い子供が映っていた。

 やはり人間だろう。

 丸刈りにされた少年のように見える。

 彼は車椅子に乗せられているようだ。

 テーブルの端に細いタイヤのようなものが覗いている。

 そのそばには背の高いポールのようなものがそそり立ち、そこに吊るされた大きめのガラス瓶から透明な管が下がっている。

 おそらくは少年の右腕に繋がった点滴だろう。

 彼は病人なのだろうか。

 そう思ったが、けれどどことなく様子がおかしい。

 俺は少年の顔をマジマジと見つめた。

 その瞬間、


 なッ…………。


 俺の思考能力は機能停止に陥った。


 な、なんだこれは……。


 鼻筋を境にその顔の右側は確かに幼い面立ちの少年に見えた。

 誰かに似ていると感じたが、けれどその思考は一瞬で消失。

 彼の大きく見開かれた右眼は真っ赤に充血し、まなじりからは止めどなく涙が溢れている。そして涙は日に焼けた頬を伝い、やがて半開きになった唇を掠めて顎の先から滴り落ちていた。


 けれど顔の左側は全くその様相を異にしていた。

 まず彼の左眼窩にはそこに収められているはずの眼球が見当たらず、やや歪な縁の黒く丸い穴がぽっかりと空いているだけであった。

 また眼窩の周囲は丁寧に表皮が取り除かれて血管や筋肉が顕な姿を見せており、そしてその下の頬は耳下まで裂かれて隙間には健康そうな白い歯列が並んでいた。

 

 ウギィ……イダィヨ……ダフケデ……。


 その声の正体が嗚咽と悲鳴だったことに気がついた俺の意識体が、あまりの悍ましさに当然の如くキヨの記憶を拒絶し始めた。

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