9-2
「その後は私、だいたい三十分おきに様子を見に行ってたんだけどムッちゃんは本当にぐっすり眠ってたわ。平気そうにしてたけどやっぱり最近おかしなことがいっぱい起こって精神的に疲れていたんでしょうね。もしかしたら夜もぐっすり眠れていなかったんじゃないかって、だから無理に起こさないようにそっとしておいたの。
そうしたら確か四時過ぎだったかな。部屋に入ったら体を起こしてて窓の外を眺めてて。それで具合を尋ねたらずいぶん良くなったっていうから、何か食べるって聞いたら焼きプリンが食べたいって。それならちょうど作り置きがあるから持ってくるねって言って私はキッチンに降りたの。それでカラメルソースを作ってたら……」
そこで雑賀さんは自分自身を落ち着かせるように胸に手を当てて大きく息をついた。そして俺たちの顔色を窺うようにゆっくりと見回し、それから少しトーンを落とした声で続きを話し始める。
「物音がして振り向いたの。するとパジャマ姿のムッちゃんがキッチンのドアの向こうに立ってて、私、よっぽどお腹が空いてたんだなあと思って『もうすぐできるからね』って笑ったら、その瞬間ムッちゃんの表情が急にこわばって、そしてとても慌てた様子で後ろを向いて駆け出してしまったの」
柏木と綾香が同時に唾を飲み込む音が聞こえた。
俺は黙って話の先を待つ。
すると雑賀さんは震える声で再び語り始めた。
そしてそれは無論、常識では信じがたい内容だった。
「私、すぐに火を止めて追いかけたわ。そしたら階段の下にムッちゃんが後ろ向きで立ってて、声を掛けようとしたら……そしたらスーッと空気に溶けるみたいにムッちゃんの姿が滲んで……そして消えてしまったの……」
話を終えて雑賀さんは乱れて落ちた前髪もそのままにその憔悴した顔を伏せた。
「そんな……」
絶句した柏木が答えを求めるように呆然とした顔をこちらに向ける。
けれど俺にも睦月に何が起こったのかは分からない。
こめかみを押さえうつむき考え込むフリをして目蓋を閉じる。
『ミシャ、何か感じるか』
すると網膜の奥の闇に彼女が真っ赤な着物をはためかせて現れる。
その顔にはいつにもまして嬉々とした表情があった。
『なんじゃ貴様、まさか気付いておらんのか。この芳しい匂いに』
おそらく焼きプリンの話をしているのだろう。
俺は思わず舌打ちを鳴らした。
『そんな冗談に付き合ってる場合じゃない。今は一刻を争う……』
『冗談? クククッ……冗談は貴様の知覚の方じゃろう。この澱んだドブのような残り香も嗅ぎ取れんとはな』
息が詰った。そして瞠目する。
『昨日の集合霊か』
ミシャは怪しく頬を歪め、ゆるゆると顎を揺する。
『違うな。アレは凄烈な酸のような匂いだった。これはもっと悍ましい得体の知れん奴の臭いよ。おそらくはもう何人も生きびとを殺めておる。そういう面白そうな奴のな』
ミシャは赤い瞳の奥に昏い光が蠢めかせ、幼女の声でくつくつと不敵に笑う。
俺はゴクリと唾を呑み、そして訊いた。
『じゃあ巨人の方か。睦月はそいつに……』
『さあな。そうかもしれんが、しかし少々腑に落ちん』
『どういうことだ』
怪訝に眉を寄せるとミシャはフンと鼻を鳴らした。
『耳までイカれておるのか、貴様は。さっきタルトタタンの女が云うたであろうが。ガキは滲むように消えたと』
ハッとした。
そうか、空気に滲むように。
なら、もしかすると……。
「……バさん、ねえ、石破さんッ」
目蓋を開き、顔を上げると目前に柏木の顔があったので思わず椅子の背もたれに仰け反った。
「な、なんだ」
「なんだじゃありません。睦月はどうなってしまったんですか。消えたってどういうことですか。もしかして悪霊に
席の横に立ち、泣きそうな顔で胸ぐらに掴み掛からんとばかりに言い募る柏木を「まあ、落ち着け」と両手で制した俺はそれから真顔で彼女にこう告げる。
「確かに霊に攫われてしまった可能性が高い」
それを聞いた柏木は一瞬で蒼白になり、その場にヘナヘナと崩れ落ちた。
その背中を抱きつくようにして支えた綾香が、俺に責めるような目つきを向けてくる。また雑賀さんは片手で口を押さえ、沈痛な表情で涙を浮かべた。
俺はひとつ息を吐き、それから脳裏に浮かんでいる希望的観測を打ち明けた。
「だが攫ったのは悪霊ではないかも知れない」
誰もその言葉の意味を上手く捉えられなかったのだろう。
柏木はへたり込んで床を見つめたまま、雑賀さんもテーブルに視線を落としたままともに無言で俺が吐き出す次の言葉を待っているように感じた。
そしてひとしきりその沈黙が続いた後、綾香が不審げに口を開く。
「あのさ、分かるように説明しなさいよ、マーシャ」
そう云われても妖の現象を常識の範囲内で納得できるように説明することは至難の技だ。俺は頭を悩ませながらゆっくりと言葉を吐き出した。
「そうだな、つまり睦月は悪霊ではない別の者に連れ去られた可能性がある。そういうことだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます