9-3
霊が生きびとを
神隠しというのがいわゆるそれだ。
その原因は霊体の強い欲求によることがほとんどだが、そうでない場合もいくつか考えられる。
たとえば偶然生じていた次元の歪みに足を踏み入れてしまうこともあるし、逆に生きびとの方がなんらかの理由を持って望んで入り込むこともあるだろう。
いずれにせよ霊界は足を踏み入れた生者が単身で動けるような所ではない。
三尺先も見通せないような白く濃い靄がかかっていて、無闇に進めば底無しの深い穴に落ちたり、脱出不可能な迷路に迷い込んだり、あるいは
だから手引きをする霊がいなければ一歩たりとも動けない。
「おそらく睦月は現在、自分を招き入れた霊体と共にどこかで身を潜めている。まあ断言はできないが」
そう告げた俺の顔を三人は食い入るように見つめた。
「じゃ、じゃあ睦月は無事なんですか」
「たぶんな」
曖昧な言葉を口にすると、それを耳にした綾香が俯きがちに気遣うような口調で前置きをした。
「でもさ、こんな不吉なこと考えちゃダメかもだけど……」
そして問い糺しげな目線を俺に向けてハッキリと言う。
「やっぱり悪霊に攫われた可能性もあるんだよね」
俺はひとしきり綾香を見つめ、それからやや小刻みに首を横に振った。
「可能性ということならあるというしかないが、確率からいうとかなり低い」
「どうしてそんなことが言えるの。気休めを言っても解決しないのよ」
「気休めじゃない。ちゃんと根拠がある」
空気に滲んで消える。
もし悪霊の仕業であればおそらく雑賀さんは睦月は黒い霧の中に消えていったと表現しているはずだ。
量子物理学における最新の研究では、この世界は次元のフィルムを何枚も貼り合わせるようにして成り立っていると定義する説があるらしい。
もちろん俺に学術的なことが理解できるはずもないが、その理論を知った時は得心できるものがあった。
おそらく現世と霊界は紙一重の隙間もないほどピッタリと重なっている。
けれど不思議なことにそれらは互いにインタラクティブな関係をほとんど有してはいない。その隔たりがどういう力の作用によるものなのか不明だが、だからこそこの世は正常に機能していると言える。もし現世と霊界を隔てるこの不可思議で薄っぺらな隔壁がなければこの世界は一気に破滅的なカオスと成り果て、もはや存在さえしていないかもしれない。
だから俺はこの世界をこのように保ってくれている存在に感謝している。
けれど同時に自分の存在にはそこはかとない疑問を感じる。
どういう理屈かはいまだによく分からないが、ミシャを受け入れたあの日から俺にはその次元の隔たりがかなり曖昧なものになってしまった。
もちろん最初はこの世ならぬ存在を知覚してしまうことが恐ろしかった。
またその所為で始終トラブルに巻き込まれるようになり、この能力を呪ったことも一度や二度ではない。
しかしながら、いつのまにかそれが俺の日常となってしまった。
そしていまでは現世から霊界を見透すことができる自分に何が求められているのか、その存在意義を考えてしまうようになった。
慣れとは怖いものだとつくづく思う。
さて話を戻そう。
これは俺の経験則によるが、もし霊界から悪意を持って現世に力を及ぼそうとすればそこには黒い霧となって次元の歪みが生じるものだ。
そして悪意がなければガラス板が溶けていくように透明な捩れとなる。
「だから睦月は悪意のない者に連れ去られたと考えるのが自然だ」
そう言い切ると綾香は納得まではできないというような訝しげな表情で肯いた。
「でも、石破さん。そうだとしてもこれからどうすればいいんですか」
その質問に俺は腕組みをしてしばし考えに耽る。
睦月が危険な状況にあることには変わりない。
巨人の霊に襲われそうになったところを別の霊が手引きをしてどこかに隠した。
そう考えれば一応辻褄が合う。
真っ先に思い浮かんだのは母親の霊だ。
しかし俺は首を横に振った。
腑に落ちない。
それほどまでに案じているなら始めから睦月のそばに居れば良いのだ。
けれどそうしない、いや彼女にはそれができない訳がきっとある。
おそらくこの屋敷で起こったことを母親は感知さえできないのではないか。
では次に考えられる存在は……鎧武者か。
いや、それも違うだろう。
俺は再び首を振る。
確かに善霊だが言葉も喋れない彼に霊界のヴェールを手繰ってそこに生きびとを隠すというような強い霊力は備わってはいない。
消去法から俺は記憶に新しい少女の霊を思い浮かべた。
けれどそのとき激しく開かれたドアの音が俺の推測を打ち破った。
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