MUTSUKI 2


 夏休みに入ってすぐ、お母さんは天国へ昇って行った。

 悲しくて悔しくて辛くて、僕はやはり散々泣いたけれど、でも実は少しだけホッとしていた。

 日々、目に見えて痩せ衰えていくお母さんの前で明るい笑顔を絶やさずにいることは僕にとってかなりの試練だったから。

 姉さんにきつく言われていた。


 絶対にお母さんの前で泣いちゃダメだからね。


 それは僕に向けられた言葉ではあったけれど、同時にきっと自分にもそう言い聞かせていたのだろうと今では思う。


 姉さんはお母さんの前だけでなく、どこにいてもそれまでよりずっと朗らかで、ちょっとしたことでケタケタと笑った。

 その頃にはお母さんの病状が思わしくないことを僕もさすがに察していた。

 そしてお母さんはそう遠くない日に死んでしまうのだろうということもなんとなく予想がついていた。


 けれど死というものが実際どういうものなのか、僕にはそれがよく分からなかった。童話やアニメの中では死者は度々甦るし、あるいは別の世界に行って楽しそうな生活を送っていたので、そういうものだろうと思っていた。

 そして姉さんもお母さんのことをそんな風に気軽に考えていると僕は勝手に想像していた。だからお母さんの亡骸を前に号泣をする彼女がとても不思議に見えた。


 どうしていまさら……。


 そんな風な言葉が喉元まで出掛かっていたように思う。


 けれどそのときの姉さんの年齢を通り越した今ならもちろん分かる。

 彼女はたぶんお母さんに安心してもらいたかったのだ。

 たとえお母さんの灯が消えても、自分がこの家を明るく照らしてみせる。

 姉さんはその想いを胸に秘め、少しでも油断すると漏れ出しそうになる悲痛な叫びを押し留めて全身全霊で朗らかな娘を演じていたのだろう。

 そしてそれらは全て死に向かうお母さんに向けられたメッセージだった。


 お母さんはそれをちゃんと受け取っただろうか。


 たぶん大丈夫だろう。

 その想いに気がつかないお母さんではなかったはずだ。


 それに比べて僕は途方もなく愚鈍だった。

 葬儀が終わり、仏壇が据えられ、季節が秋から冬に向かう頃になってもまだ、お母さんはいつ復活するのだろうかと僕は密かに心待ちにしていた。

 そして微笑むお母さんの遺影を眺めてはその来るべき情景を夢想して胸をときめかせていた。


 けれど、いつまで経ってもお母さんは僕の前に現れなかった。

 そして冬が来て、ひっそりとした新年を迎え、雪が地面を覆ったその頃になって遅ればせながら僕はようやく悟ったのだった。


 母が完全に失われてしまったのだということを。

 どれだけ待ってももう母は絶対に帰ってはこないのだということを。


 その悟りは深い深い絶望と虚しさに満ちていた。

 世界が数ルクス、一気に照度を下げた気がした。

 鼓膜がとらえる音がなにもかもくぐもって聞こえるようになった。

 そして匂いも味も身体が受け取る感覚全てがどこか嘘臭く感じられた。

 父も姉も屋敷の者たちも皆が母の死をゆっくりと過去に挿げ替えていく中、僕はひとりそれこそ今更ながらその過去に立ち戻ってそこで膝を抱えた。


 あのとき、もっとなにかできたはずではなかったか。


 それはどんなに手を尽くしたところで取り返すことのできない後悔だった。

 たとえば姉のように冗談を言ってお母さんを笑わせたり、お父さんのように抱き起こして車椅子に乗せ中庭に連れて行ったり、そのように喜ばせるなにかが僕にはできなかったのだろうか。

 返すがえすも僕の行動はほとんど全部馬鹿のように思える。

 寝たきりのようになったお母さんの枕元で僕は姉さんの言い付けに従い、作り笑顔で聞いた。


「ねえ、お母さん。今日は具合大丈夫?」


 大丈夫であるはずがなかった。

 緩和ケアも限界で、お母さんは終始途切れることない苦痛と戦っていたのだ。

 それなのに僕は毎日毎日判で押したようなその拙い問い掛けを口にして、そして無理に大丈夫と言わせていた。

 お母さんは微笑んでみせたけれど、きっと胸の内では僕が鬱陶しかったに違いない。


 いまになって悔やむ。

 もっとなにか別のことが言えなかったのだろうか。

 たとえば痛みを和らげるそんな魔法のような言葉がもしかしたらあったかもしれない。どうしてそれを考えなかったのだろう。

 あるいはお母さんが好きだった花を摘んできたり、心地よく眠れるような音楽をかけてあげたり、少なくともそれぐらいのことはできたはずではなかったか。 

 憶えているかぎり、そういう気の利いたことが僕には一度もできなかった。

 ただお母さんの枕元で嬉しくもないのに馬鹿みたいに笑っていただけだった。

 なぜ、お母さんを喜ばせてあげられなかったのだろう。

 そして、どうしてちゃんとお別れができなかったのだろう。


 お母さんと交わした最後の言葉は「行ってきます」と「行ってらっしゃい」。

 その日、僕は友達と遊ぶ約束をしていた。

 若瀬川の河原で石投げをして帰ると母の容態が急変したと姉さんに告げられた。

 そのときにはすでにお母さんの意識はなかった。

 そしてその夜、静かに息を引き取った。


 あの日、遊びになんか行かなければ良かった。

 ずっとお母さんのそばにいれば良かった。

 もっと一緒に時間を過ごせば良かった。

 いくつものたらればがあの夏の日の夜のページに真っ黒な付箋としてベタベタと無数に貼り付けられている。

 そしてそれは小学六年生になったいまも変わらないままだ。


 

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 更新を追ってくださっている方へ


 いつも拙作をお読みいただきありがとうございます。

 カクヨムコン9が始まった2ヶ月前から期間内は毎日更新という目標を掲げてここまでやってまいりましたが、本日それが達成されました。

 これもひとえにここまで応援してくださった皆様のおかげであり、感謝の念に耐えません。

 本当にありがとうございました。


 とはいえ物語はまだまだ中盤です。

 この後、石破くんたちはは残っている謎、隠されている謎を解き明かしながら恐ろしい悪霊との対決に向かっていきます。


 これまでのように毎日公開とは参りませんが、できるだけ早く物語を進めていくように頑張りますのでこれからも応援のほどよろしくお願い申し上げます。


                      2024.2.1


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