MUTSUKI 1
「ねえ、お母さん。今日は具合どう?」
無理に微笑んで尋ねるとお母さんもニッコリと笑った。
「大丈夫よ、ムッちゃん。ありがとう」
そして決まってそう答えるのに、お母さんはいつまでもベッドに身を横たえたまま起き上がることも出来ず、時折そのやつれた顔を苦痛に歪めた。
お母さんが病気になったのは僕が小学校に上がる前の冬のことだった。
乳癌の深刻さはよく理解できなかったけれど、手術や抗癌剤治療のための入院で度々離ればなれになってしまうことが当時の僕にはもの凄くやるせなかった。
そして寂しさにべそをかくと四つ年上の姉さんがいつも慰めてくれた。
「お母さんはきっと良くなるから。また一緒に旅行にだって行けるから」
姉さんはそう励ましながら、でもその目に涙を溜めることもしばしばあった。
梅雨時のある日、何度目かの入院から戻ってきたお母さんは姉ちゃんと僕をリビングに呼んでこう言った。
「お母さんね、もう入院はしない。これからはずっとここにいるからね」
そう云って微笑んだお母さんの黒目がちな瞳の奥に絶望が隠されていることなど幼い僕に分かるはずもなかった。
ただ姉さんには事情を知らされていたのだろう。
彼女は跳び上がって喜ぶ僕のそばで言葉もなくずっとうつむいていたと思う。
けれど実際、帰ってきたお母さんは僕の目に元気そうに映った。
入院を繰り返していた頃よりずっと顔色が良かったし、食欲もあるように見えた。
また参観日にもきてくれたし、趣味のガーデニングも再開していた。
ある日、学校から帰った僕は満点を取った算数のテストを見せようとお母さんを探した。けれどいつもいるはずのリビングや寝室にはその姿がなく、中庭を通って教会やサロンにも足を運んだけれどそこにもお母さんはいなかった。
がっかりしてため息まじりに窓を見ると空には今にも雨を落としそうな濃い灰色の雲が一面に広がっていて、それがまた僕を憂鬱にさせた。
僕の胸には正体不明の不安がいつも渦巻いていた。
本当の病状は僕に伏せられていたけれど、それでもなんとなくお母さんの影が少しずつ薄くなっていくような感覚が確かにあって、それを否定しようとすればするほどどうしようもなく不安に苛まれた。
だから僕はいつもお母さんを探していた。
お母さんが消えてしまわないように常に見張っておきたいと思っていた。
空から視線を落としてくるとそこにひっそりとした雑木林が暗くたたずんでいた。
この鬱蒼とした林が僕はあまり好きではなかった。
たまに専門の業者が来て下草を刈っていくだけで、それ以外ほとんど人の寄り付かないそこには毒蛇やスズメバチもいるらしく、危ないので僕と姉さんは独りで入ってはいけないと言われていた。
雑木林は教会と向かい合う僕の部屋からも見える。
夜、カーテンの隙間から覗くとその暗闇の樹々の合間に白い筋のような妖しい光が閃くことがあり、僕にはそれも恐ろしかった。
お父さんや姉さんに打ち明けると錯覚だと笑われたけれど、水の流れの中に身を翻す魚のようなその煌めきが僕にはどうしてもそうだとは思えなかった。
お母さんだけは僕の話を真面目に聞いてくれて、もしかするとそれは精霊かもしれないと小声で耳打ちした。
「精霊ってなに。幽霊とは違うの」
「精霊は自然が持つパワーが集まったものだって聞いたことがあるの。悪いものじゃないからムッちゃんも怖がらなくていいよ」
そう言ってお母さんは僕をそっと抱きしめてくれた。
お母さんが病気になる前の話だ。
曇天の下にたたずむ雑木林を何気なく眺めているとそのとき視界の隅に白い影が蠢いた。あの妖しい光だと思った僕はやはり少し恐ろしくて目を逸らしてしまったけれど、不意に母の言葉を思い出してもう一度恐るおそる目を向けた。
そしてよくよく目を凝らして見るとそれは白い服を着た人間だとようやく気がついた。
お母さんだ。
僕は嬉しくて飛び上がりそうになった。
そしてテストの答案を握り締めて駆け出し、全速力で雑木林へ向かった。
走っていくと案の定、林の小径が切れた先に夏用の白いカーディガンを羽織ったお母さんが見えた。
遠くから「おーい」と声を掛けるとお母さんは驚いた顔で振り向き、下草を掻き分けながら息を切らせて走り寄った僕に微笑みを浮かべた。
「ムッちゃん。ひとりでここに来ちゃだめじゃない」
柔らかな口調で僕を叱ったお母さんは僕の頭を優しく撫でる。
「ねえ、なにしてたの」
するとお母さんは視線を外し、それから少しためらいがちに答えた。
「あのね、精霊さんとお話をしていたの」
その不思議な返答に思わず目を丸くするとお母さんは悪戯っぽく笑い、その円い広場の真ん中に目顔を向けた。
「そこにあるでしょう。ほら、石が積み重なったところ」
僕は肯いた。
見ると数歩先にいくつもの平たい石がピラミッド状に数段積み重ねられている。そしてその頂に白っぽくて丸いやや大きな石がひとつ載せられていた。
「これがそうなの?」
訝しげに僕が訊くとお母さんは向き直り「精霊さんのお家かな」と言う。そして僕の髪にくっついていた蜘蛛の巣を指で払いながら、ふふふと笑った。
「本当はお母さんにもよく分からない。でもここに来て目を閉じていると誰かの声が聞こえてくる気がするの」
「誰かって」
「だから精霊さん。でも、もしかすると幽霊かもね」
お母さんはクスクスと笑ったが、僕は幽霊という言葉に身を強ばらせた。
するといきなり僕は後ろから強く抱きしめられた。
「大丈夫よ。精霊でも幽霊でもここにいる誰かさんは悪さなんてしないわ」
「どうして分かるの?」
「だってその声はすごく優しくて、でもちょっと悲しそうだから」
お母さんの声色が少し沈んだ。
「なんて言ってるの、その誰かさん」
「分からない。その声はとても小さくて、掠れてて。でもね、なんとなく分かるの。お母さんに寄り添ってくれてるって。味方だって。ほら、今のムッちゃんみたいに」
お母さんは額を僕の頭にそっと押し付けた。
「だから私もあなたの味方ですよって囁くの。するとね、とても不思議なのよ。身体が温かくなるの。そしてとても気分が良くなる。だからやっぱり精霊さんかな。パワーを授けてくれてる気がするの」
頭皮から響いてくるその言葉は僕の中心を真っ直ぐに通ってつま先から土に浸み込んでいくように思えた。
風のない日だった。
樹木の枝葉はそよとも動かず、鳥の声も虫の羽音もなかった。
遠くに聴こえるはずの若瀬川のせせらぎさえもなく、ただ母と僕の声だけがこの世の全ての音響だった。
蒸せるように草と土の匂いが立ち込め、それがお母さんの香りと濃密に相まって僕の肺を満たしていた。
その心地よい感触を今でもよく憶えている。
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