8-3

 物理学実習室のドアが音もなく閉まる様子に綾香は今一度両肩を抱きしめ、それから身震いを収めた。


「な、なんだったの、あの人」

「気にするな、単なる諜報好きなオカ研部員だ。ただし云っておくが、あいつの素性を深掘りするようなことは御法度だ。万が一情報戦だと勘違いされると少々めんどくさいことになる」


 そう告げると柏木が恐るおそる訊く。


「は、犯罪じゃないんですか、あれ」


 俺は曖昧に首を傾げた。


「ギリギリセーフなんじゃないか、たぶん。誰かに付き纏っているわけじゃないし、情報を他人に売っているわけでもないからな」

「でも、気持ち悪いよ。完全にプライバシーの侵害じゃない」


 綾香が顔をしかめた。


「そうですよ。それになんでそんな人がオカ研にいるんです? 諜報とオカルトって全く無関係じゃないですか」


 まあ、それはそうなんだが……。


 影浦には入学当初に起きたある心霊案件で恩を売ってしまった形になり、そのまま妙に懐かれて今に至っている。

 が、それについては今ここで語るべきことでもないだろう。


 俺はひとつ咳払いをしてその質問をはぐらかした。

 そして手に残っていた一枚の写真をおもむろに実習台に置く。


「わあ、綺麗なお墓。周りにお花畑があってなんだか映画のセットみたいね」


 綾香の妥当な感想に俺は軽く肯首し、次いで柏木へと目を向ける。


「それより昨日のこと、睦月には話してないだろうな」

「ええ。でも、どうしてなんですか。教えてあげれば喜ぶと思いますけど」


 俺は質問に答えず、思案げに腕組みをして写真に目を落とした。

 まだ分かっていないことが多すぎるのだ。

 この段階であやふやな情報を伝えることは睦月を混乱させてしまうだけで益はないと俺には思える。

 それに彼女が霊となってこの世に存在し続けているのは心残りがあるからだろう。

 母親が亡くなってからもそんな不安に駆られていると知れば、睦月はどう思うのか。近しい間柄でもない俺に分かるはずもないが、それでも多少なりとも心に負担がかかることは目に見えている。

 きっと喜ぶだけではない別の感情も芽吹いてしまう。


「えっ、サッキィのお母さんのお墓? ごめん、私、知らなくて」


 悄然とする綾香に柏木が胸のまえで小刻みに両手を振る。


「いえいえ、気にしないでください。亡くなったのはもう五年も前のことですし、むしろ綺麗と云ってもらえて嬉しいです」


 上目遣いで窺うような眼差しの綾香に柏木はそう言って笑顔を見せた。

 その彼女に俺はできるだけ自然な感じを装って断りを入れる。


「そのことなんだが、母親について少し立ち入った話を聞いてもいいか」


 すると柏木は不審げな顔で俺を見つめ、そして肯いた。


「ええ、それは構いませんが……、もしかして今回の件で母が何か関係しているんでしょうか」


 俺は口もとに手を当て、柏木由里子の墓の写真にもう一度目線を落とした。


「分からん」

「あんたね、亡くなったお母さんのことを訊くのに分からんてことはないでしょう。ちゃんと納得いく説明をしなさいよ」


 詰め寄ってくる綾香を俺はうるさく片手で追払う。

 そして彼女たちに向き直り、いつになく真剣な表情を作った。


「分からんから訊くんだよ。影浦じゃないが、事に当たるにはまず『知る』ことが先決だろう。それに……」

「それに、なによ」


 俺は綾香から目線を外し、柏木を見遣る。


「それにお前の母親は今、おそらく……とても苦しんでいる」


 

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