7-4
『******Menschliche Anatomie』
「これは……?」
手差しをしながら振り向くと背後に立っていた柏木もまた不審げに首を傾けた。
「その分厚い本ですか? さあ、昔からそこにありますけど開いたことは……」
するとその隣で雑賀さんが少しだけ眉をひそめる。
「ここに来て間もない頃、ちょっとめくってみたことあるよ。あるけど、それ……」
そこでいったん口を閉じた雑賀さんは口もとに手を当てて小声を押し出した。
「気持ちが悪かったわ。医学書かな、人体解剖図みたいなのがいっぱい載ってて」
やはりそうか。
『Anatomie』はラテン語、もしくはドイツ語だろう。
どちらにしても英語では『Anatomy』、つまり解剖学だ。
指差して数えると全部で七冊。
はたして医学とキリスト教の関連性はどのようなものであったか。
思い起こそうとして俺はそれが全くの愚行であるとはたと気がつく。
中の下程度の学業成績をコンスタントにキープし続ける俺にそのような知識が備わっているはずもないのだ。
通常ならばこのようなアカデミックな書物など俺には無用の長物だし、今のところというか未来永劫おそらく医学に興味を持つことなどもないだろう。
けれどそれでもこの医学書に俺がそこはかとない好奇心が掻き立てられたのは、その黒く重厚な背表紙からドス黒く陰湿な気配が感じられたからである。
「これ、ちょっと見せてもらってもいいですか」
尋ねると雑賀さんが肩をすくめながら肯いたので俺はその一冊を取り出し、テーブルまで運んだ。
そして書物の中央あたりを適当に真っ二つに分け開くと刹那、目に飛び込んできたのはやはり片紙面いっぱいに描かれた人体開頭解剖図だった。
どうやらスケッチを行った者の視点は前頭部をやや斜め上方から見下ろしているようだ。
生気のない無表情な男から頭蓋を取り外したその精巧なイラストは多少掠れてはいるものの、学術的探究心がない者にはかなりグロテスクで人によっては吐き気さえ催すかもしれない。
確か脳梁というのだったか、正中にまっすぐな亀裂が入ったその皺深い臓器には周囲から部位の名称を指し示す無数の細い線が引かれ、さらに所々にこの書の持ち主の筆によるものと思われる繊細で判読不可能な文字が添えられている。
そのとき左の肩口で柏木の短いえづきが聞こえた。
けれどそれを気遣う余裕などない。
俺は紙面から立ち昇る青黒い炎のような悍ましい気配に集中していた。
『ふむ、情念の残滓だな。持ち主は余程この書物に執着があったらしい』
ミシャの声が鼓膜の奥深くで響いた。
俺は両の目蓋を閉じて問う。
『いつ頃のものか分かるか』
『さあな、そこまでは嗅ぎ取れん。だが数百年が経っても残り続けるものもある』
網膜の裏でミシャが口角を吊り上げ、紅い瞳を不気味に輝かせた。
『そしてそういうしつこい情念を残す者は死した後、凄まじい怨霊となっておることが多い』
幼顔に無邪気な笑み。
それはまるで玩具をねだる童女のようだ。
俺はその戦慄を抑え込むように訊く。
『ミシャ、他に何か気付くことはないか』
『ふむ、そうよな。強いていえば書架本体からも微かな情念が臭う。じゃが霊気の残り香は微塵もないな』
『今回の件と関係があると思うか』
『解らぬ。それを調べるのは貴様の役目であろう。気安くワシを当てにするでない。それよりタルトタタンの件、早くそこの女に命じよ。ほれ、今じゃ。なんならワシが直接……』
強制終了。
目蓋を開けた俺は一旦医学書を閉じ、次いで裏表紙を開いて肯く。
「どうやらこの医学書、柏木家が購入した蔵書ではなさそうだな」
「どうしてそんなことが分かるんですか」
柏木の質問に俺は最後のページに記された細かいイタリックを指した。
******1901.2.1******
おそらくはそれがこの書籍が発行された西暦であると容易に想像が付いた。
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