3-3

「貴様……何者……」


 脳髄に直接響いてくる不気味な声。

 男か女か。

 老いているのか、若いのか。

 あるいは子供だとしてもうなずける機械が合成したようなその声色は、けれどやはり恐ろしいほどの殺気を醸し出している。


 厄介だな。


 俺はひとつ長い息を吐いた。


『ただの通りすがりだ。そちらに仇為す者ではない』


 そして再び眉間に指をかざし念を放つ。


『お前こそ何者だ。どうして俺を襲おうとしている』


 悪霊は答えない。

 木立の奥、色彩を失ったその場所に物騒な気配を纏ったままじっと身を伏せているばかりだ。

 

『この屋敷の者にちょっかいを出しているのはお前なのか』


 やはり反応はない。

 そこで俺は試しに右足を一歩前に踏み出してみる。

 するとその瞬間、霊体は黒煙にも似た凄まじい妖気を立ち昇らせた。

 どうやら近寄るなと警告しているらしい。

 まるで凶暴化した虎のような気配だ。

 

『なあ、そんなに警戒するなよ。俺は話がしたいだけだ』

 

 俺はそう懐柔しながらまた一歩足を進めるとその刹那、悪霊の気配が風に漂う巨大な蚊柱のようにぞわりと蠢く。


ね』


 その刺すような短い思念が俺の脳に届くが否や、樹林の陰から霊気が無数の真っ黒な手と化して飛び出し、疾風の如き疾さで俺に向かってきた。


 くっ、やはりミシャを出すしかないか。

 俺はジャケットの内ポケットに素早く右手を突っ込む。

 そして忍ばせたミシャの依代よりしろに指を触れる寸前、


『……やめ……てッ!』


 襲い来る霊体からそれまでとは全く異質の甲高い声がした。


 女?


 すると目前まで迫っていた猛々しい霊気が次の瞬間、どういうわけかそこで不可思議なほどあっけなく掻き消えてしまった。


 なにが起こった。


 その突然の消滅に呆気に取られた俺は、それでもしばらく意識を凝らしたまま探ってみる。けれど、辺りには揺らめく木漏れ日の影に小鳥の囀りが響くばかりで悪霊の気配など微塵も残ってはいなかった。

 俺は胸に溜まっていた空気をゆっくりと吐き出しながらまた頭蓋の中に問う。


『もしかしてミシャに恐れを成したか』


『いや、女の声が聞こえたのは貴様が依代に触る前だ。ワシに気づいたはずがない』


 その解釈に俺も同意する。

 ならばなぜ姿を消した。

 それにあの女の声はなんだったのか。


 ミシャが答える。


『ふむ、おそらくあれは集合体だな。女の霊はそのうちのひとつだろう』


『集合霊か。だとすればその女が攻撃を引き留めたというわけか。けど、なぜだ』


『知らぬ。だが妖怪と化した集合霊の意志など統一されている方がそもそも不気味だろうが』


 まあ、それもそうか。


 集合霊とはその言葉の通り、複数の霊体がなんらかの作用により集まり体を成したものと解釈されている。

 その複合体の種別は大まかに分けて三つ。

 ひとつ目はいくつかの霊が寂しさを分つように寄り合い大きな霊体となっている場合。

 二つ目は自然霊などと融合した精霊的なもの。

 そして最後はたくさんの人が悔いや恨みを残して死んでしまった場所で、その無念が集まり妖怪化したもの。


 どう考えてもさっきの奴は三つ目のカテゴリーに分類されるものだろう。


『なあ、ミシャはあれが柏木の弟に霊障を引き起こしていると思うか』


 問うと彼女は再び網膜の裏に姿を現し、その真っ白であどけない顔に不気味な笑みを浮かべた。


『さあな。ただそこらへんの雑魚とは桁違いの霊力を持っていることは確かだ。さっきのように攻撃してくれば貴様ではとうてい防ぎ切れんわ。ためらわずワシを呼び出せ。良いな』


 ミシャはそう念を押すと緋色の着物の裾をサッと翻して消えていった。


 俺は懐に入れた手を引き抜き、肩の力を抜いて首をぐるりと回す。

 すると、よほど強ばっていたのだろう、ポキポキと小気味よく音が鳴った。


「えっと、あの、先輩……どうかしたんですか。もしかしてまた幽霊とか?」


 声に振り向くと不安げな表情の柏木が立っていた。


 ああ、そうか。


 不覚にもこいつの存在をすっかり忘れていた。

 そして自分の挙動を振り返り、さもありなんと肯く。

 後ろを歩いていた人間がいきなり前触れもなく誰もいないはずの林の一角を睨め付け、必死の形相で身構えたのだ。

 しかも独り言をブツブツ呟きながら。

 事情の分からないものからしてみればさぞかし気味の悪い行動に見えただろう。

 不審げに思われるのも仕方がない。

 俺はわざと柏木から目を逸らして淡々と答えた。


「いや、ちょっとヤバめの奴がいて、いきなり襲いかかってきたものでな」


 あ、しまった。


「ま、まあ、悪霊なんかたいして珍しくもない……って、おい」


 おかしい。


 霊がいると教えれば必ず悲鳴を上げるはずの柏木が蒼白な顔をして悪霊の出た木立ちのあたりをじっと見つめている。


「どうかしたのか」


 その憐憫と恐怖が入り混じったような瞳の色に俺は少なからず不審を抱いた。

 柏木が呟くように答える。

 

「やはり、この場所……なのですね」

「……どういう意味だ」


 すると彼女はフッと短く息を吐き出し、俺に真顔を向けた。


「そのことをお話しする前に、まずは弟に会ってもらいます」


 


 


 





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