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 そうだ、なかったことにしよう。

 そしてこの優雅な青空に目を向けたまま、ここから立ち去ってしまえばいい。


 その甘美な誘惑に素直に従うことにした俺は夢遊病者のように不確かな足取りで歩み始める。


 ああ、それにしても良い天気だ。

 ならばやはり今日は蜻蛉谷を訪れるための日和だったのではないだろうか。

 空を見つめているとそんな悔恨がふたたび少しばかり胸に疼いた。


「あの、石破さん……? 」


 おや、そばで誰かの声が聞こえたようだがきっと空耳だろう。

 ハハハ、気にしない、気にしない。

 俺は自己暗示を掛けつつ足を進め、石段に差し掛かると今度は目線を目一杯に下げてゆっくりと段を踏んで降りていく。


「先輩、待ってください」


 おや、背後でまた誰かに声を掛けられたような。

 いや気にしないでおこう。

 きっと俺とは別の先輩のことだ。

 フフフ、こんなところで人違いとは呆れたものだ。


「ワシは貴様に呆れておるがな」


 ついでにミシャの嘲笑も気にしない。

 俺は下り足を早め、最後の数段は二つ飛ばしで駆け降りた。

 すると背後を着いてくる見知らぬ誰かが勝手に事情を打ち明けてくる。


「私、城崎先輩から石破さんのことを聞いてきたんです」


 キノサキ先輩?誰デスカ、ソレは。

 Oh、ワタシシラナイヒトですネ。

 頭の中で外国人に成り切ろうと懸命に努力したものの、まだまだ俺には鍛錬が足りなかったらしい。

 口が勝手に舌打ちを鳴らした。


「相談したら、そういう案件で役に立つ人間は学校に一人しかいないって」


 数メートル後ろから彼女の声と足音が追ってくる。


 くそ、綾香のやつめ、また余計なことを。


 すでに自己暗示の効力は霧散してしまった。

 けれど俺はそれでも黙々と前を向いて足早に歩く。

 すれ違う人たちがこぞって怪訝なまなざしを向けてくるが、そんなものに構っている場合ではない。

 そして当然ながら柏木も彼らには一切目もくれず、負けじと俺に着いてくる。


「石破さん、お願いです。話だけでも聞いてもらえませんか」


 ええい、しつこい。

 こめかみに浮き出た怒りマークをもはや俺は消す術を知らない。


「いやだ」


 振り返りもせずそう短く言い切ると俺はついに駆け出した。

 東屋に飛び込んだ俺は手早く帰り支度を済ませる。

 そして足早に去ろうとしたその出入り口で柏木が両手を広げて俺を足止めした。


「どいてくれ」

「いやです」


 その顔に先ほどまでの楚々とした表情はすでにない。

 肩で息をする彼女は眉を吊り上げ、ほとんど夜叉のような形相で俺を睨みつけている。


「どうしてですか。かわいい後輩がこんな風に頭を下げているんですよ。話ぐらい聞いてくれてもいいじゃないですか」

「知らん。お前なんぞ知らん。それにどこがカワイイんだ」


 俺はくだんの発言をそう蹴散らし、柏木の横をすり抜けようとした。

 するとその刹那、彼女は唐突に声のトーンを落とす。


「かわいくないですか、私……」

「え……」

「……ですよね、私なんて」


 動揺した俺は立ち止まり、思わず弁明を始めてしまう。


「いや、そうじゃなくてだな。俺はお前のことを端的にそう評した訳ではなくてだ。つまり容姿、外見について否定したのではなく、えっと、その……」


 しかしその甲斐もなく柏木は顔を両手で覆った。

 困り果てた俺はしばしうなじを揉み、それから謝罪の意味を含めて仕方なく口ごもる。


「いや、ま、それじゃ、ちょっとだけなら」


 すると弾かれるように両手を取り去った柏木の顔には満面の笑みが花開き、そして彼女はあまつさえその細い腕でガッツポーズまで作った。


「やった! 」


 ……ッんのやろう。


 現金な変わり身に俺は頬をひきつらせ、さてはこの初対面の自称カワイイ後輩にしてやられたのだと暗鬱に悟った。ただ騙し討ちされたとはいえ一度口にした約束をいまさら反故にするわけにもいかず、俺は眉を寄せ口を尖らせて柏木に条件を出す。


「ただし話を聞くだけだぞ。その後のことは期待するな」

「わかりました。とりあえずそれで構いません」


 そう返してにこやかに笑みを浮かべた柏木に綾香の含み笑いが透けて見えた気がして俺はこれ見よがしに大きなため息を吐いた。

 

「じゃあ、行くか」


 俺はいまだ出入り口を塞いでいる柏木をしっしっと手で追い払った。


「え、どこにですか。お話しするだけならここで良いと思いますけど」

「ふん。綾香絡みで俺に持ちかける要件ならだいたい察しは付く。ここじゃあ人目もあるからそういう込み入った話はできん」

「人目って誰もいないじゃないですか」


 柏木はそう言うと不思議そうな顔で東屋内部を取り囲むように据えられたベンチを見回した。俺はうんざりしながらも教えてやる。


「いるんだよ、守衛さんが」

「守衛さん? 」


 その疑問符に俺は振り返り、いましがた巡回から帰ってきた守衛さんを顎で指した。


「……誰もいませんけど」


 青ざめた柏木がごくりと唾を飲む音が聞こえた。


「あのな、俺のことは綾香から聞いて知ってんだろ。だったらそれぐらい理解しろよ」


 そう言い捨て柏木を押しのけるようにして東屋から出ると相も変わらない眩い日差しが頭上から照りつけてくる。

 そして手庇てびさしを掲げて歩き出すと直後、柏木の悲鳴が高らかに響き渡った。

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