第9話

グルグルと思案する宏に友美は「違うんです」と言った。

青い顔しているが、その口調はしっかりしている。

「え?」


「私、平気ですから。どんな命令でも、大丈夫ですから」

宏から身を離してはっきりとそう言いきった。

宏は唖然として友美を見つめる。


「だから、遠慮なく言ってください」

友美だって、さっきのアナウンスを聞いていたはずだ。

その上でこんなこというということは覚悟を決めたのだろう。


宏は思わず唾を飲み込んでいた。

スカートから伸びている細く長い足。

ふっくらとして魅力的な唇。


それらに視線が吸い寄せられている。

今までだって友美の魅力は十分に理解していたはずなのに、ここにきて意識せずにはいられなくなっていた。


普段は仕事の能力を重視しているが、今は違う。

「い、いいのか?」

「はい」


友美はうなづきながらも顔を赤くしてうつむく。

緊張しているようで体はこわばっているのがわかった。


こんな状態になっているのにまだ自分のことを気にかけてくれている友美に胸の奥がむずがゆくなる。

「じゃ、じゃあ……」


性的なことと言われたら命令することは限られている。

宏は「キスを……してくれ」と、とても小さな声で言った。

きっとモニター越しには聞こえなかっただろう。

しかし友美の耳にはしっかりと聞こえてきていた。


ピクリと体を反応させ、顔を上げる。

赤く染まった頬にうるんだ瞳。

それらを見ているだけで愛しくてたまらなくなる。


宏は自分の感情を押し殺し、目を閉じた。

友美の顔が近づいてくる熱を感じる。

そして次の瞬間柔らかな感触が唇に降りかかってきた。


マシュマロのようにやわらかく、こちらから唇を押し付けるとしっかりと押し返してくる弾力もある。

その唇に食べられてしまいたいとさえ感じて、友美の体を強く抱きしめた。


体に絡まる宏の腕に、友美は以前会社で行われた飲み会での出来事を思い出していた。

若社長は飲み会の席はいつもいじられ役だった。


部下たちに沢山お酒を注がれ、飲まされ、ベロベロになってしまうのが常だ。

そんな宏を家に送り届けるのは友美の役目だったため、その日も友美はノンアルコールで楽しんでいた。

そんなとき、随分飲んだ宏が友美に寄りかかってきたことがある。


「お二人とも、本当にお似合いですよね」

女性社員の一人がふと口走った一言に友美の心臓は大きく跳ねた。


みんなからどう見られているのか薄々感じてはいたのだけれど、宏との関係は社長と秘書意外のなにももでもなかった。

「そんなこと……」

否定する友美の方を、酔っ払った宏が抱いてきたのはそのときだった。


途端に女性社員たちから黄色い悲鳴があがる。

友美は一瞬自分がなにをされているのかわからなくて、頭が真っ白になってしまった。


気がついたら宏をたしなめて、元通りノンアルコールを口に運んでいた。

こんなのどうってことない。

社長は酔っ払っているのだから、意味なんてない。

必死に自分にそう言い聞かせたが、その出来事は友美にとって忘れられないものになっていたのだった。


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