第5話
「田所くん、この前のイベントなんだけど……。石田さん、こっちの資料を片付けておいてくれる? それから前田くん、次のイベントに関してだけど」
東京の一等地に立つ高層ビルの30階。
その最奥が社長室になっていた。
しかし宏が一日中社長室にいることは滅多になくて、ほとんどが下のフロアにいた。
そんなこと部下に任せてしまえばいいのにと思うことでも、宏は自分の手でやらないと気がすまない性格だった。
かといって部下の仕事を全部取ってしまうわけじゃない。
ちゃんと役割分担をした上で、自分も現場に出て仕事をするのだ。
キビキビと人一倍に動き回る宏についてまわるのが友美の仕事だった。
友人などに社長秘書の仕事をしていると伝えるとたいていが羨ましがられる。
秘書室に座って電話番をしていればいいと思われているのだ。
しかし現実は全く違う。
社長の宏が動き回るのなら友美だって動き回る他なく、みんなが思っているようなものとはかけ離れていた。
でも……仕事の途中でふと宏の顔を見つめるときがある。
そんなじっくり見つめる時間はないけれど、部下と真剣に話をしているところろか、書類をしっかりと確認している横顔とか。
仕事熱心な宏を見ていると胸の中にわい上がってくる感情があった。
好き……。
思わずその感情に溺れてしまいそうになり、友美は慌てて自分の立場を自分で再確認するのだ。
自分は社長の秘書で、それ以上の存在ではないと。
それに34歳という若さで社長になり、それが形式だけでなくちゃんと仕事ができるということで宏の人気は社内外へと広がっていた。
そんな素敵な人に相手にされるはずがない。
そう思い、友美は自分の気持ちを宏に打ち明けるつもりは毛頭ないのだった。
そんな密かに思いを寄せている宏と密室にふたりきりだ。
緊張しないほうがおかしい。
その上ジャンケンで負けてしまった友美は宏の命令をきかないといけないようだ。
「命令って言われてもなぁ」
宏は困ったように頭をかいている。
なにもない空間で相手になにかを命令するなんて、そう簡単なことじゃない。
なにをさせればいいのか、限られてきてしまう。
友美はゴクリと唾を飲み込んで宏を見た。
「どんなことでも大丈夫です」
覚悟を決めてそう言った。
「そうか……じゃあ、僕のことを下の名前で呼んでみて」
その言葉に友美は一瞬瞬きをした。
まさかそんな命令が下されるとは思っていなかった。
でも、これならどんな状況でも簡単にできることだ。
友美は宏と対峙するように立った。
身長差があるから少し見上げる格好になる。
コホンと咳払いをして「失礼します」と断ったあと「ひ、宏……さん」と呟くように言う。
下の名前で呼ぶくらいどうってことないと思っていたが、それは大間違いだった。
社長の名前を呼び捨てにするなんてありえないことだし、こんな異質な状況ということもあいまって心臓が跳ね上がってしまった。
顔が真っ赤になり、それを隠すように俯く友美。
「それは呼び捨てじゃない」
宏が困ったように言った。
わかってる。
でも意外と緊張してしまったのだから仕方がない。
友美はまた咳払いをして、今度はとても小さな声で「ひ……宏」と、呼んだ。
今度は顔だけじゃなくて、体中が熱くなる。
その声はちゃんと宏にも届いていたようで、笑顔になった。
「これでいいのかな?」
首をかしげていると、アナウンスが流れ始めた。
「いいでしょう。次は編集者さんと作家さんの番です。社長さんよりも過激な令名をしてください」
自分たちの番が終わったことにホッと安堵したのもつかの間、アナウンスの内容に宏と友美は目を見交わせた。
自分たちよりも過激な命令を指示された2人は戸惑った表情を浮かべている。
「過激って言われても……」
編集者の早紀は困り果てた表情で後ろに立つ昌也へ視線を向けた。
昌也は不機嫌そうな顔で腕組みをしている。
ジャンケンで負けてしまったのが気に入らないのかもしれない。
せめて編集者である自分が負けていればと早紀も思う。
だけどそれはもう終わったことで、替えられない事実だった。
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