#18

「これで良し、と」




 孤児院の中にある井戸に、手押しポンプが設置された。




「これが事実上の試験運用になるから。定期的に様子を見に来るけれど、何か問題が有ったら、小さなことでも構わないから私のところに言いに来てね」




 鍛冶屋の親父の愛娘、シンディさんがそう言って笑った。




「ちょっと待ってまだ帰らないで。これから一杯注文するんだから」


「へ?」


「まずはボイラー。それから、大工さんを紹介してもらって浴槽と脱衣所を作らないと。あとはトイレ。それから炭焼き小屋と……」


「ちょ……ちょっと待って。いきなり何を言い出すの?」




「だから、この孤児院を大改造するんだ。その為の設備なんだけどね」


「そもそも“ボイラー”って、何?」


「お湯をかす為の装置。これを使えば魔法に頼らなくてもお湯が沸かせる」


「いや、お湯だけなら簡単に沸かせるけど……」


「宿屋みたいに、お湯をおけみ置くのならともかく、浴槽の湯を沸かそうと思ったら、単純な話じゃなくなる。もっと効率的にやらないと」


「いやだから、そのまき代だってタダじゃないんだよ?」


「わかってる。だけど絶対に必要なんだ」


「貴族の真似事をすることが?」


「そこが一番の勘違いなんです。




 人は何故、病気になるんだと思いますか? 何故貴族より平民、平民より貧民の方が病気になり易いんだと思いますか?」




 この世界、魔法が発展しすぎていて、逆に病理学などの分野は全く未発達なのである。貴族より平民・貧民の方が病気になり易いことも相俟あいまって、病気は「魔法で対処出来ないもの」=イコール「精霊神の加護が薄れた(または失った)為になるもの」と思われている。




「答えは簡単。貧民より平民、平民より貴族の方が、“清潔”を心掛けるからです」


「それが、原因だというの?」




所謂いわゆる“病気”の原因は、実は四種類あるんです。




 一つ目は、毒。


 そうと気付かず毒を身体に入れてしまった時」


「いや、毒ならば気付くだろう? それに毒なら毒消し草や〔解毒魔法〕が効くはずだ」




 その場に居合わせたアリシアさんも、会話に参加してきた。




「知らない毒というのはいくらでもありますよ。


 知ってても気付かない毒もあります。


 例えば、蚊に刺されたら患部がかゆくなります。これは蚊の持っている毒の影響なんです。ただ致死毒ではないので、それが毒だと気付かないんです。


 その他にも、食物が腐ったらそれは毒になります。


 それが毒の所為せいだと思わないから、毒消しを使うということに気が回らないんです」




 ここでセラさんが納得したような顔をした。




「二つ目は、虫。


 所謂寄生虫だけど、中には目に見えないくらい小さい虫もいる。


 目に見えないから、それが虫の所為とは気付かない。


 実は虫だと気付けば、それに対処する薬草はどこにでもあるし、この孤児院の菜園にもある。薬術士の使う薬の中にも、ただの虫下しでしかない物もあります。


 勿論もちろん、それら虫下しに使える薬草は、全ての寄生虫に効く訳ではないですけどね。




三つ目は、ウィルスカビ




カビ?」




「はい、厳密にはそこらで見かけるカビより更に小さいものです。


 実は、冬熱病(この世界での風邪や感冒インフルエンザ等のこと)も、そういったカビが原因なんです。


 ただカビが原因となる病気に対しては、それ専門の薬でなければ対処出来ません」




「じゃあ意味がないじゃないか」




「ま、そうですけどね。


 四つ目は、その他。


 これは、種類が多すぎて区分出来ません。どちらにしても、原因が四つ目に該当する病気なら、手の施しようがないんですけれど」


「……駄目じゃん。てかそんなに色々知っているんなら、何とかなるんじゃないのか?」




「そうは言ってもねアリシアさん。俺は色々なことを知っているし、色々なことを学んでいる。


 “博物学者ナチュラリスト”を自称することは出来るけど、“メディカル学者・サイエンティスト”や“ファーマ学者コロジスト”じゃないんです」




「博物学者? 医学者? 薬学者?」




「博物学者は、『世界の目録を作る者』とわれます。医学者は人体や病気の本態を研究し、病気を癒し健康を維持する者、薬学者は医薬品の開発や効能分析を行う者です。


 ただこの世界には、まだ医学者や薬学者は存在しませんけどね」




「世界の目録、か」


「そうです。だから俺は“知っているだけ”なんです。


 手押しポンプの原理を知っていても、その設計図を描ける訳じゃない。病気の原因を知っていても、病気を癒せる訳じゃない。そこから先は、専門家の助けが必要になるんです。




 そして、病気を癒すことは出来なくても、病気を遠ざけることは出来ます」


「病気を遠ざける。……どうやって?」


「その為にも、浴場が必要なんです。




 まず虫やカビは、食品にも含まれます。


 けど、これらは大抵熱に弱い。食品を清潔に保ち、そして十分に加熱調理すれば、大半の虫やカビは死滅します。




 次に、排泄物。これは実は、毒や虫そしてカビの巣なんです。


 だから適切に処理する必要がありますが、どれだけ適切に処理をしても、それらは身体に付着します。


 その為、トイレに行った後は、必ずうがいと手洗いをして、毒やカビを洗い流します。同時にトイレを可能な限り清潔に保つことで、更に危険リスクを低減させます。




 けど、乾燥した排泄物は粉末状になって空気中に飛散します。言い換えれば、カビや毒は空気中にもあるんです」




「何だって? それじゃあどうしようもないのか?」




「だから、毎日風呂に入り体を洗う必要があるんです。


 体に付着している毒やカビを洗い流す為に。


 ついでにそれで気持ち良くなれば、毒に対する抵抗力も増すでしょう」




「……そんなもんなのか?」


「実はそんなもんなんです。遠い国の言葉に、『やまいは気から』というのがあります。


 気鬱きうつにしていると、それだけで病気になる。


 毎日前向きに生きている冒険者が病気になり難い理由の一つがそれなんです」




「それはさすがにこじつけだと思うが」


「そうかもしれませんけれど。


 でも気持ち良く湯につかって、それで病気が遠ざかるんなら、試すだけでも損はないでしょ?」


「……確かにそうだな」




「ただ、湿気しけっているところはカビが生え易いから、換気を十分に考える必要もあります。


 換気を考えないと、浴槽で病気のもとを作ることになるんです」


「それは専門家と相談だな」




◆◇◆ ◇◆◇




 ここから先は、後日たん


 孤児院に浴場が完成した後、シンディは手押しポンプの様子を見に来たという口実で、ほぼ毎日風呂に浸かりに来ることになる。




 健康の為、というよりも、その気持ち良さにあらがえなくなったというのが本当のところだろう。




 なお、更に数年後、シンディは何人かの友人と共に、この国初の公衆浴場を開設することになるが、それもまた別の話。


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