第6話

 雑談と言われたが、恢が話す隙など微塵もなかった。珈琲に手を付けたのが悪かったらしい。恢が紅茶の方が好きだったら、もしくは子供舌でオレンジジュースを頼んでいたらこうはなっていなかったのだろう。


 雑談と言われ、緊張の糸が解けてしまい、せっかく用意してくれたのだからと珈琲を一口飲む。


「あ、おいしい」


 珈琲を飲むとなると、インスタントのものを主に飲んでいた恢だが、キルクスの淹れた珈琲は、香りだけでなく、苦み、酸味、甘味のバランスが比べ物にならないほど良いことに気が付いてしまった。


 この言葉を聞いたキルクスはすごかった。


「おお! 恢君! 分かるのかい、この珈琲の良さが。やっぱり恢君と私は趣味が合うようだ」


 そこからキルクスは怒涛の勢いで話し始める。まるで平成のオタクの様に。

「さっきも言ったけれど、この珈琲の豆は、私がブレンドしたものなんだよ。名づけるならば『キルクスブレンド』だね。私好みのブレンドにすることも考えたんだが、珈琲のおいしさを多くの人に知ってもらいたいという思いが強くてね。誰でも飲みやすいように作ることにしたんだ。それまで何度か自分でブレンドしたことがあったんだが、この四種類の豆を使うというのは初めての作業でね。とても根気のいる作業だったよ。もちろん楽しい時間でもあったんだけどね。やっぱり、焙煎度合いによっても味がかなり変わってくるからとても大変だったよ。あっ、これを言うと結構驚かれるんだけれど、自家焙煎をしていてね、生豆の状態で仕入れているんだよ。思い通りの味にならないから、何回か挫けそうになったんだけどね、完成された珈琲を飲むのを想像すると、やる気が出てくるんだ。かなり時間がかかってしまったけれど、やっと納得のいくものができたんだ。だけど今度は、珈琲の淹れ方の問題があったんだよ。恢君も珈琲が好きなら分かると思うけれど、この世には色んなコーヒーの淹れ方があってね。有名なのは、ハンドドリップとかだよね。それでも、フィルターの種類で味が変わってしまう。私が好きな抽出方法は、サイフォンかな。お湯が下から上へ行く光景は、子供心がくすぐられるものがあるからね。それに、サイフォンにも種類があって、よく見るのは、ガラス風船型サイフォンだね。その他にも、天秤型のやつは実験器具みたいで面白いんだよ。変わり種でいくと、トルココーヒーは、まるで魔法のようだよね。魔法の使える私たちからすると、そうでもないかもしれないが、魔前歴の人たちは、初めて見る時驚くだろうね」

とこんな様に、キルクスは、恢が喋る余地も与えずに延々と珈琲の話を続けてしまう。


 小一時間ほど経って、すでに飲み終えた珈琲のカフェインなど効果がなく、恢に睡魔が襲い掛かっている。あともう少しでヘッドバンキングをしてしまいそうなほどだ。


「というわけで、今までのブレンドは、ブラジルをベースとして作っていたんだが……おっと、もうこんな時間じゃあないか。実は、これから対策会議があるんだ。もっと珈琲について話していたかったんだが、仕方がない。恢君もやはり色々と疲れているようだからね、寝泊りできる部屋を用意してあるから、そこに行くといい」


 説明中の身振りで腕時計の文字盤が目に入ったのだろう。主に「雑談」で疲れた恢には、喜ばしいことだ。


「はい! ありがとうございます! 早速行かせていただきます」


 キルクスの話からやっと解放されるらしい恢は、露骨に元気になる。椅子が倒れない程度の勢いで立ち上がり、机の上を片付けるキルクスの脇を通って廊下へ出ようとする。


「恢君、まだ部屋の場所を教えていないよ。そんなに疲れていたのか。気づいてあげられなくてすまなかった。恢君の部屋は、男子棟の一番奥だよ。案内しようか?」


「いえ、大丈夫です! 大事な会議だと思うので、そっちに行ってください。では、いろいろありがとうございました」


 男子棟の場所なんて知るはずもないが、キルクスの珈琲談義から逃れるために、拷問部屋、もとい、取調室のような部屋から退室する。


「ふう、これからキルクスさんがいる所で珈琲の話はしちゃだめだな」


 どう向かえばいいか分からないが、一旦キルクスから離れるために、左へと進んで行く。


 キルクスの珈琲の話は、正直一割も覚えていないが、その前の会話は、十割覚えている。その中で出てきた『固有魔法』恢は、そこに注目した。


 キルクスが、『パクスサーカス団』の記憶があるのは、恢の固有魔法のせいだと言っていた。そして恢は、無意識に固有魔法を使っているという事も。


 無意識を自覚するのは難しい。一分間に何回呼吸をしたかを知らないように、恢が今までの人生で固有魔法をどのタイミングで何回使ったことがあるのかは分からない。どんな魔法なのかさえ分からない。


 しかし、分からないなりに考察をする余地はある。


 キルクスが恢を助ける時に見せた魔法の様に、実害が大きい類のものではないし、発動したとしても、他人に影響を与えるものでもなさそうである。


 キルクスの口ぶりからすると、大体の見当はついていそうだが、固有魔法の知識が乏しい恢は、そんな条件に当てはまる魔法を思いつくことはできないし、思いついたところで、警察組織で役に立つとは思えない。立てるのはステージにびっくり人間としてではないだろうか。


 そんなことを考えつつ、歩いていると、照明が漏れ出る部屋を見つける。このまま歩き続けても、埒が明かないため、誰か人がいるのならば、道を聞こうと思い、その部屋をのぞいてみることにする。いきなり開けて気まずい状況にはなりたくない。


 少し開いていたドアの隙間を見ると、そこは、数時間前まで恢が眠っていた部屋だった。


 相変わらず無骨に並んだ三台のベッドは、寝泊りするのには向いていないように見える。


 人が動いている気配はなかったため、もう誰もいないのだろうと思い、最後に自分が寝ていたベッドを見ると、双子のクラウンがすやすやと眠っていた。


 先ほど話した印象では、生意気なガキといった感じであったが、こうして眠っている姿は、年相応のかわいさがある。


 ドアを開けて起こしてしまうのも申し訳ないため、静かにその場を立ち去ることにする。


「少年、何をしている。その部屋に何か用か?」


「はっ、はいー!」


恢の警戒範囲外から声をかけられ、薄暗い廊下の雰囲気も相俟って必要以上に驚いて、変な返事をしてしまう。


「おう、いい返事だ。返事がいいとこっちの気分も良くなるな。それで、こんなところで何をしているのだ?」


 上ずった声で、質問とは関係のない返事だったのだが、なぜか好意的に捉えられてしまった。


 そんな、粗雑な声の主は、一六五センチある恢が見上げるほど背が高く、無精髭を生やした厳つい大男であった。甚平に草履と時代にそぐわない格好をしている。


「うっ、えっ、あの」


 圧迫感のある風体に威圧され、先ほどとは違う理由で質問の答えに詰まってしまう。


「ん?ああ、あの生意気なガキ共を寝かしつけていたのだな。それはご苦労。わしには出来ぬ芸当だ。尊敬に値するぞ」


 双子が寝ている部屋を見たらしい大男は、見当違いな推測をし、勝手に尊敬する。


 生意気なガキという印象は共通らしい。


「いえ、俺が寝かしつけたわけじゃなくて、えーっと、なんか部屋が用意されているらしくて、男子棟ってとこを探しているんです」


「おう!キルクスの言ってた少年だな。やっと目が覚めたのか。男子棟は三階の左だぞ。あっちにエレベーターがあるから使うといい」


 LMCの局員であるらしい大男は、恢のことを知っていたらしい。知らない人に自分が認知されているというのは不思議な気分である。


「ありがとうございます。ちょっと迷ってたんで助かりました」


 威圧感のある大男だが、恢に友好的であるなら、スムーズにコミュニケーションをとる事が出来る。


「おう!部屋まで付いて行ってやりてぇところだが、生憎これから会議でな。一人で大丈夫か」


「はい! お仕事の方が大事なので、気にしなくても大丈夫ですよ」


「そうか! やはりいい返事だ! それに気遣いもできる。こりゃ、日本の未来も安泰だな」


 返事がいいだけで日本の未来を託されても困る。


「それじゃあ、三階の左だからな。健闘を祈る」


 恢にはこれから闘う予定などないのだが、どういう意図なのかを検討しても答えが出ない。


 がははははと豪快に笑いながら去ってゆく大男の背中を見ながら男子棟までの道順を確認する。


「三階に行って左か。あっ、あの人の名前聞かなかったな。まあ、大男さんでいっか」


 安直に第一印象を心の中のあだ名にした恢は、早速教えてもらった男子棟への道を進む。


 一瞬、双子をあのまま寝かしておいていいのか迷ったが、ここでは先輩なので、大丈夫だろう。


 ここが何階なのか分からないが、とりあえず三階へ向かうためにエレベーターへ向かう。恢が二日間の眠りから覚めた時から薄暗い廊下は、窓もなく、等間隔にドアが並んでいるだけなので、自分がどのくらい進んだのか分からなくなる。


 漏れ出ていた光が、遠くなり、戻るのも進むのも不安になってきた頃、今まで同じだった扉が、不自然に大きい両開きのドアになる。


 どこかで見たことのある扉だ。これは、そうだ。母さんが見ていた医療ドラマで出てきたストレッチャーごと入るエレベーターだ。


 一人で乗るには広すぎてどの位置に立てば良いのか分からない。それに、恢が乗ったことのあるエレベーターの操作パネルと比べて違和感がある。


「一番上が『現実』で、一番下が『空想』? それになんで上から一なんだ? まあ、三階って言われたし、三を押しとけばいいか」


 いろいろありすぎた一日を過ごした恢には、違和感を考察する余裕は皆無だ。


 扉が閉じて、すぐに開く。最新型の魔動エレベーターはと遜色ない。遜色あるのは、扉の先だ。そこに薄暗い廊下は無く、まるで別の建物の様に明るく、高級感に満ち溢れている。高級ホテルの住民は毎日こんな景色を見ているのだろう。


 一つ変わらない点は窓がない事だ。


 キルクスの「雑談」のせいでそんな違和感に気付く余裕すらない恢は、廃人のように怠さが残る体を左へ運ぶ。五室ほど鍵のない部屋を通り過ぎると、一番奥にたどり着く。


「はあ、やっと休めるのか」


 この時の恢は、知らない場所だというのに、警戒をするという事を忘れていた。初めて会った大男を素直に信じ切ってしまっていた。「健闘を祈る」の意味を深く考えず流してしまっていた。


 その結果、恢の疲労はまた積み重ねられてしまう。


 ガチャリ


 無警戒にあけたドアの先には、ここまでの廊下と比べても見劣りしない豪華な部屋が続いていた。ふかふかそうなベッドが二台、何時間でも座っていられそうなリクライニングチェア、机の上には、ウェルカムドリンクと洋菓子が恢を歓迎するように置いてある。


 そして、美しいスタイルの女性が一人、少し驚いたような顔をして立っている。裸で。


「あらぁ、坊や。ノックも無しにレディの部屋に入るのは良くないわよ。だって、びっくりしちゃうじゃない。でも安心して。お姉さんはそういう積極的な子も大好きよ」


 恢は動く事が出来ない。


 よく見ると、ふかふかのベッドは眠った痕跡があり、リクライニングチェアには女性の服が乱雑にかけてあり、ドリンクは飲みかけだ。


「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。お姉さんは優しいから。素直になっていいのよ」


「……‼」


 やっと思考が現実に追いついた恢はすぐさまこの部屋を出ようとする。


 しかし、体を後退させることも前進させることもできない。部屋に入って女性と目が合った姿勢のまま一ミリも体を動かす事が出来ない。


「うふふ、そんなに慌てなくて大丈夫。私の部屋に入って来たってことは、そういうことがしたいのでしょう」


 声を出すことすらできない恢の首元に、細く白い華奢な腕が回しかけられる。大人の女性の臭いが鼻腔をくすぐる。


 動きたいのに動く事が出来ない。声すら出ない。思考も靄がかかったように曖昧になる。しかし、近づく女性は、はっきり見える。


「茴さん。恢くんを解放してあげてください。瞬人さんに騙されただけなんですから。可哀想ですよ」


 焦点が合っていない恢にはなんとなくしか分からないが、部屋の奥から少女が出て来たらしい。日焼けをして褐色の肌にボーイッシュな髪形の少女は、恢のことを庇ってくれた。


「あら、そうなの橄奈ちゃん。でもお姉さん、このまま食べちゃいたい気分なの」


「茴さん、これから会議ですよね。だから、シャワー浴びていたんですよね」


 呆れ返ったような声で、年上であろう裸の女性に対して物怖じせずに言う少女は、相当肝が据わっているのだろう。


「そうだったわ。欲求を満たせないなら、仕事、辞めちゃおうかしら」


 会議が無ければ襲ってもいいと捉えることもできる会話は、恢にとってはどうでもよい。今は一刻も早くこの場から去りたい。しかし、体が動かない。


 動け、動けと念じていると、指先がピクリと動く。それをきっかけに、掌から前腕、上腕へ、足も同様に硬直が解けていく。


「ごめんなさい! 間違えました!」


 開いたままの扉から勢いよく外へ出て、廊下を一直線に走って行く。


「男子棟はここの反対側ですよー!」


 一貫して恢を助けてくれた少女は最後まで恢の味方のようだ。


 恢を襲おうとした女性はいきなり走り出した恢に唖然としている。


「茴さん、開放するなら言って下さいよ。ちゃんと伝わったか分からないじゃないですか」


「私、魔法解いてないわよ」


 女子部屋から逃亡した恢は、反対側の突き当りまで来ていた。かすかに聞こえた言葉が正しいのならば、ここが男子棟で、恢に割り当てられた部屋だろう。


「はあ、はあ、今度は合っているよな。別な人が立っていたら呪ってやる」


 呪い方など知らないが、今なら呪殺できそうだ。呪う対象が間違っている気もするが、そこに立っているのが悪い。


 コンコンコン


「入りますよー」


 同じ轍を踏まないように一応ノックをして声をかけてから扉を開ける。その先には、裸の女性が立っていることもなく、使用した痕跡もない。ただ、中身がぐちゃぐちゃのスクールバックが掛けてあるだけだった。


 間取りは、先ほどの部屋と同じようだが、生活感がないため、殺風景に見える。それでも、中学生の部屋としては豪華すぎる。


「今度こそ、やす、め、る」


 二つ並んだベッドの片方に倒れ込むと、ふかふかのマットレスに意識が吸い込まれ、眠りに落ちる。

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