第3話

 恢は、終業のチャイムが鳴ると、一学期に向かっていたスクールバス乗り場とは逆方向へと進んで行く。


 しつこくされる失恋話をうまく躱しながら、やっとの思いで手に入れた『すごいでかいテント』の詳細な情報によると、恢の家とは反対方向の山の中腹辺りにあったそうだ。


 なぜ彼が彼女と一緒にそんな所にいたのかは、永遠にも感じられる別れ話の中で判明したが、如何せん長い話になるため、ここでは割愛する。


 始業式の日は午前中だけの日程でも良い気がするが、ここは学校の都合なので仕方がない。そのため、真面目にその日の授業を最後まで出席した恢は、既に夕暮れ時の街を自宅へとは向かわずに、『すごいでかいテント』へと向かっていた。


 中学生である恢の行動範囲は、学校と、複数の商業施設が並んだショッピングモールくらいであるため、現在向かっている場所は、家族と遠出する時に通り過ぎた程度の記憶しかない。それに加え、あまり人の住んでいない場所であるため、舗装こそされていても街灯がほとんど無く、不気味な雰囲気が漂っていた。


 なぜ恢が、テントの場所を聞いたその日に探しに来たのか。そこには、中学生という若さゆえの計画性の無さだけでなく、朝、『パクスサーカス団』という名前を聞いた時に思い起こされた感動の記憶が、恢の中でとてつもなく大きなものだったからだ。


 自分の中にある大きすぎる確信、今回の場合、テントへ行けばこの記憶の正体がわかるという根拠のない確信は、他のことに対する注意力を著しく低下させる。


「はあ……はあ、まだ、着かないのか」


 これまでスポーツ経験が無く、帰宅部である恢にとって、小さな山であるが、いきなり登るには体力が続かなかった。


 この世界には、基本魔法を応用することによって、まるで空を飛んでいるかのように移動することができる人物がいるらしいが、恢には、そんな知識も技術もないため、一歩一歩登っていくしかない。


 周りが完全に暗くなり、暗順応した目でも先が見えにくくなってきた頃、空には天の川が憎たらしいほど奇麗に流れていた。


 星空を見る余裕など微塵もない恢は、山の中腹などとっくに過ぎ、山頂へと続く最後の階段の前にたどり着いていた。


「あいつ……全然中腹になんてないじゃあないか」


 ここまで一度も休憩を挟まずに登ってきたため、山頂が見えたという本来の目的とは違う達成感から、ちょうど良く座れそうな石に腰掛けながら愚痴を吐く。


「こんな時間まで家に帰らなかったら母さんに怒られるじゃないか」


 恢の中の当初の予定では、長くても一時間ほどで見つけられるはずであったが、予定時刻は一時間前に過ぎている。ここから家までは、どれだけ急いでも一時間半はかかる。今の恢のコンディションでは、二時間はかかるだろう。門限が決められているわけではないが、さすがに中学生が一人で出歩いていい時間は過ぎてしまう。


 どんな言い訳をしようか、いっそ今日は帰らずに野宿でもしようか、そんなことを考えていた恢であったが、突然、座っていたはずの体が、浮遊魔法でも掛けられたかのように地面から離れていく。それと同時に、首元の圧迫感と、口を押さえられた息苦しさに襲われる。


「あーあー、ぼっちゃん、こんな暗いところに一人で居ちゃあ駄目だよぉ。危ない人がいっぱいいるからねぇ」


 赤黒いスーツに身を包み、オールバックにセットした二メートルはあろう巨体の持ち主が恢を後ろから軽々と持ち上げていた。


「……!」


 叫んで助けを呼ぼうにもすでに口を押さえられているため、声が出ない。


「無駄だよぉ、例え叫べたとしてもこの時間にこんなところで助けが来るはずないからねぇ。ぼっちゃんは、これからアジトに行って実験に協力してくれるんだよねぇ」


 ねっとりとした口調ににやにやと笑う顔は、普通の中学生として生きてきた恢にとって、非日常的な光景であり、未知のものを見た人間は、自然と恐怖が増幅される。


 突然訪れた人生最大のピンチを前にして冷静な思考を無くした恢は、ただ我武者羅に手足をばたつかせて抵抗することしかできなかった。


 しかし、相手は大人であり、これまで見てきたどんな大人よりも体が大きい。自分が小人になったと錯覚してしまうほどだ。火事場の馬鹿力という言葉があるが、それでさえ恢の力ではかなわないだろう。


「んー? 今までの子たちはすぐに魔法を使って来たけれど、ぼっちゃんは使わないんだねぇ。あれ、ピリピリして少し気持ちいいんだけどなぁ」


 今まで物理的に暴れることしかしてこなかった恢だが、小学生の時に習った防衛魔法のことを思い出す。不審者に襲われたらすぐに使いなさい。と言われていたが、この発言で意味がないことを察する。


 今の恢には、これ以上抵抗する術を持っていない。手詰まりだ。


「あれ? おとなしくなっちゃたねぇ。もっと暴れてもいいんだよぉ。お話はアジトでもできるからねぇ」


 話をする気など全くないが、すぐに殺されるわけではないと分かり、先ほどのパニック状態からは脱することができた。それでも、恐怖が消え去ることはない。この男が言っていた『実験』とは何なのか。想像力豊かな中学生である恢は、悪い方へと想像が進んで行き、絶望へと堕ちて行く。


「ボスに言われた実験体も確保できたし、そろそろ帰るかー。見つけるのに思ったよりも時間かかっちゃったなぁ」


 ここからどこへ連れていかれてしまうのだろうか。そんな考察すら億劫になるほど絶望と寄り添っている。


 これまでの人生を振り返り、今世との別れを覚悟しようとする。


 恢を捕まえている男は、アジトへと向かうのだろう。振り返り、森の中へと進み始める。


 コツン、コツン。


 男のものとは明らかに違う足音が山の頂上へ向かう階段から聞こえてくる。


「平和を掲げる者として見過ごせない状況だね。その子を解放してあげられないかな」


 革靴を履いた紳士的な男性が石段を下りてくる。


「駄目だよぉ、ぼっちゃんは大事な実験体なんだからぁ。実験が始まるまでは僕と遊ぼうねぇ」


 質問には律儀に答えるが、要求には答えてくれないらしい。


「それは残念だ。では、実力行使といこう。現行犯だからね」


 恢にとってこんな山奥に助けが来たのは、思ってもいない幸運であった。しかし、期待をすることはできなかった。体格差が激しすぎる。


 ジムに行ってもなかなか見ることのできない巨漢に対して、身長は平均よりもあるが、細身の男性だ。黒いパンツを穿いてストライプシャツにサスペンダーという出で立ちは武闘派には見えない。


 それでも、街灯の下まで来た男性の妙に目立つ銀髪には不思議な魅力を感じざるを得なかった。


「ファイアーマジック ルーメン」


 パチンと指を鳴らす音が響いた瞬間、視界が暗くなった。否、いきなり明るくなった為、反射的に目をつぶってしまった。


「うおあああ」


 突然の閃光に恢を捕まえた男も対処できずに視界が奪われる。瞼を開ける事が出来ず、眼球の奥で血管が脈打つ感覚がある。それでも、恢を離すどころか、渡さんとばかりに力が強まり首を絞める。


「くそう……ぶふぇぇ」


 十メートルほど離れていたはずの男性がいつの間にか近くに来て男を殴りつける。それでも、恢を離すことはなく、首を絞められている恢の意識が薄れていく。


「ふむ、思ったよりもタフだな」


 一度反撃が届かない位置まで距離を取る。かなりの力で殴りつけたが、あまり効いてはいないようだ。


「ちょっと痛かったねぇ。でも、そんなんじゃあ助けられないよぉ」


 にやにやと挑発するような顔が少しだけ固くなる。


「その子も可哀想だから、そろそろ終わりにしようか」


「やってみなさい!」


 今度はスーツの男が勢い良く詰め寄り、普通の人間ではありえないほどの威力で殴りかかる。しかし、それが何かに当たるという事は無かった。


「グラスマジック オペレーティオ」


 周囲から木の根が成長し、スーツの男を拘束していく。振り上げた右腕が進んで行くにつれ引きちぎられるが、確実に勢いを殺していく。そして、拳が目標に届く寸前で完全に停止する。


 そのまま男の腕が捻られ、恢は解放される。


「さて、これで一段落だ。事情聴取をしなきゃだから付いて来てもらおうか」


 気絶している恢を抱き上げた男性は、元来た道を進み、その後ろをゆっくりと木の塊が追いかける。さすがの巨体でも自然の強さには敵わなかったようだ。


「ふふふふふ。ここまでやられたのは、久しぶりだねぇ。一度状況を立て直させてもらうよぉ」


 スーツの男は、全身が赤黒く光り、それと同時に拘束がボロボロとはがれていく。まるで経年劣化によってさびた鉄のようであった。


自由になった男は、そのまま森の奥へと消えていく。今から追いかけても追いつくのは困難だろう。


「あれは知らない魔法だな……。今はこの子の安全が最優先だ。深追いはよそう」


 今捕まえる必要はない。犯罪の確証を得られたのだから。

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