第7話 命令

「へ……?」


 男の手を掴む小さな「影」は、まっすぐにミモザを見つめていた。

『———————?』

 きん、と高い音が「影」から響く。首らしき部位を傾け、自身に確認を取るような仕草。それにミモザは夢中で頷いた。すると。

「あ? ——ガ、い゛ぃぃいあ゛あ゛あアアアアアアア!!!!」

 めきめきと音を立て、男の腕がへし折れていった。粘土でもこねるかのように、男の強靭な腕はひしゃげ、体液を噴き出してしぼんでいく。やがて関節とは全くの逆向きまでねじ曲がると、「影」は勢いよくそれを引き抜いた。男の悲鳴が轟く。

「ひ、」

 男の左腕は、肩から先がちぎれ飛んでいる。あまりの苦痛に膝をつく男の傍らに、「影」は肉塊となった腕の残骸を投げ捨てた。

『————』

 蹲る男に興味をなくしたのか、投げ捨てた肉塊の前に座り込む「影」。砕かれた骨と肉、皮膚と血液が入り混じったそれを素手でぐちゃぐちゃとかき回し、やがてその一部を口へと放り込む。

『———』

 砕けた腕の骨をラムネのようにかみ砕き、やがて嚥下する音が響く。ミモザはそれを、息を殺して見つめているほかなかった。

「ギ……く、そがァァアアッ!!」

 座り込む「影」の脳天めがけて、男が残った右腕を振るう。その手には、ミモザを散々焼き嬲ったスタンバトンが握られていた。

「死ねッ!! 死ね!! 死ねェッ!!!!」

 肉の爆ぜる音と、焦げ臭い音が辺りに充満する。半狂乱になりながら男は何度もそれを殴りつけ、やがて荒い息切れと共にそのなれ果てを確認しようと手を止める————が、そこに死骸は無かった。

『————』

「ッ!?」

 劈く音。咄嗟にその音のする方を見れば、天井に張り付くように「影」がいた。天井そのものを掴むように指が食い込んでいる。重力を無視し、天井に蛙のように座り込んだ影は、カクカクと不規則に首を捻る。

「なんだっ、畜生!! 何だってんだ、コイツは!?」

 男が悲痛な叫び声をあげる。もはやそこに、ミモザを追い込んでいた残忍なゴロツキの面影は無かった。

「クソッ!」

 男がよろめきながら立ち上がり、出口へと走る。しかし背を向けた男を、「影」が見逃すはずがなかった。

 天井を蹴って飛んだ影は、その勢いで男の背にしがみつく。

「ぐあっ!?」

『———— ————』

 そして、そのうなじへとかぶりついたのである。

 太い首の筋に、いとも簡単に穴を空け、筋繊維ごと噛み千切る。泣き叫ぶ頬に爪を立て、脂肪の残る肉を引き裂きめくらせる。そこに捕食の意図はなく、それはただ対象を『壊す』ためだけの行為であった。

「あ、グ、ぁっ……ああぁっ!! やめろ、しぬ、死ッ……!! やめてくれぇっ…!!」

 床に腹ばいで押し付けられ、男から情けない声が漏れる。ビクビクと痙攣が起こり、体から絶え間なく水音が響き続けていた。

 男の体が壊れ、心が壊れ、命が壊れていく。

「——!」

 そこでやっと、ミモザは状況を理解した。

 ——あれはきっと、私の指示で人間を『壊して』いる。


「だめっ!!」

 恐怖で座ったまま動けずいたはずの身体が、いとも簡単に跳ね起きる。ぬめつく床によろけながら走り出したミモザは、男に馬乗りになっている小さな「影」に向かって勢いのまま体当たりをかました。「影」がミモザと共に真横に吹き飛ぶ。

 受け身も取れず転がった痛みに呻くミモザだったが、すぐさま起き上がり、血だまりに沈む男の元へ向かう。

「いっ、生きてますか!? 意識があるなら返事を……!」

 応ずるようにか細く聞こえたうめき声に、ミモザはほっと息をつく。しかし出血多量でこのままでは長くはもたない。とにかく止血を————

 そこまでまで考えて、ミモザは背後の気配に身体を凍らせる。

『———?』

「……あ、ぁっ、」

 起き上がったその姿に、ミモザの恐怖心が蘇った。

 小さな影は曖昧に首を捻る。

『———?』

 そして考えるように数秒固まったのちに、

『———?』

 ミモザへと、不気味に光る視線をよこした。

「ヒッ……!」

 男をかばうようにして立つミモザだが、ややあってまたその場にへたり込んでしまう。「影」はゆっくりと確かめるように近づき、血まみれの腕を伸ばしてくる。

「もういい! もういいんです!! もうやめて!!」

 影の動きは止まらない。ドロドロに汚れた腕がミモザの肩を捕らえ、ゆっくりと握りこむ。

(どうしたら、どうしたらこのは止まってくれる……!?)

 動き、言葉共に逸してはいるが、これは人だ。害することなど自分にはできない。

 恐怖に怯え、研ぎ澄まされたミモザの頭が、少し前の記憶を呼びさます。震える息をゆっくり吐きだし、ミモザは喉の奥をきゅう、と引き絞る。

(この『声』なら、聞いてくれるはず)

 影は既にミモザの眼前にまで迫っていた。食い込む指に、骨が小さな悲鳴を上げた瞬間、ミモザは一気に息を吸い込んだ。


「”———やめて“!!」


「……ッ」

 また、きん、と頭に響くような声。自身の声だというのに、脳まで響くその音にミモザはくらりと頭を揺らす。

 焦点の合わない目をゆっくりと開き前を見れば、「影」の動きは止まっていた。叱られた子供のように、ぱ、と手を引っ込めたかと思うと、下を向く。

「効い……うひゃあっ!?」

 瞬間、その身体が前方——ミモザの脚の上に倒れ込んだ。ピクリとも動かないその様子に、ミモザがそっと身体を支え、恐る恐る転がし顔を覗き込む。

「ヒト……だよね」

 月明りが割れたガラス窓から差し込む。

 光に照らされたあどけない寝顔は、およそ人間の、十歳程度の少年の姿をしていた。


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from2070:狂蟲騒生記 ミナヅキハツカ @guilty524

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