第5話 若返り?
それから数時間後。時刻は午前0時を回った頃だった。
そこで足緋は自覚する。どうにも身体が熱いこと。熱からくる怠さと、吐き気もまたぶり返している。
「あ——……一回吐くか」
喉を内から押し上げてくる感覚に眉を顰め、重い身体に鞭打って立ち上がる。
貧血のような状態に加え、空のはずの足緋の胃袋がぐるぐると何かをかき交ぜている。体調不良なんて子供のころ以来かと呑気に考えながら、足緋は壁を伝ってトイレへと急いだ。
トイレに向かう中継地点、洗面所に入った瞬間、目測を誤ったのかドアの上ぶちに額をぶつけ、ぐわんと視界が揺らめいた。陶器の洗面器に両手を付き、頭ごとぐわん、ぐわんと回り続ける視界を制御するが、収まる気配はない。
これはダメだ、ここで吐いてしまおう。
一瞬それだけ考えて、足緋は洗面器に顔を突っ込んだ。ひとしきり吐き続け、ふと、自分は今どんな酷い面をしているだろう、と体を起こす。
そうして見上げた足緋は、鏡に写った姿に目を見開いた。
——目の前には、若返った自分がいたのだ。
60代も後半といった足緋の顔に刻まれていた無数の皺——頬や額に特に深くあったそれが、今や綺麗さっぱり無くなっている。
肌にもキメや潤いがある程度戻っており、髪の色こそそのままであるが、一本一本の艶と太さもおよそ30代前後のものと遜色がない。
何より——自分の記憶にある40年ほど前の自分の姿と、鏡の中で驚いている大男の顔が、なんともぴったり一致するのである。
「は……!? あ、あぁ……?」
身体の不調も忘れ、足緋はべたべたと顔を触る。すれば鏡の中の男も同じように頬を引っ張って、口をパクパク動かして、至極不可解極まりないと云った表情を浮かべる。
視線を下げ、自らの手を確認してみても——命令通り動くのは、現役時代によく見た皺のない骨ばった両掌と、筋肉質な両腕で。
「ど、う……なってんだ……?」
不思議な夢、としか言い表せない現状に思考が停止しかけた……その瞬間。
どん! と大きな音を立てて、足緋の真下が爆発した。
「のわぁッ!」
勢いに思わず身体が仰け反り、足緋はそのまま尻もちをつく。
「今度はなんだよ!」
爆発は洗面器から起こったようで、足緋の吐しゃ物たちが床に大きく飛び散っている。うげ、と足緋は顔を顰めるが、やがてそれらはふつふつと表面を煮立たせ始め、そして、ずるり、とその形を成した。人の形だ。
「マ……マジか、おい」
人の手足のようなものを生やしたゲル状の生物は、続けざま何体も吐しゃ物から現れる。呆然としている足緋をよそに、彼らはお互いを食い合うように争いを始めた。
洗面台から、床から、壁から。湧き出したゲルが別のゲルに覆いかぶさり、そしてその全身を口のような器官で喰らいつくす。その最中、別の人型がその身体にしがみつき、足元からずるずると啜って取り込んでいく。
ぐちゅる、ぐちゅると生々しい音を響かせながら、その様はまるで食物連鎖の縮図のように感じられて、足緋は静かに息を呑む。
十数分か、そこら。
洗面器から湧くものの勢いが弱まり、遂にその場に立つゲル生命体が一体まで残る。
ぼこぼこと湧く他の奴らを待つその身体が、傍らでそっと傍観を決め込んでいた足緋にふと、向けられた。
同時に。
それは、できたばかりの手足を器用に動かし、足緋を食らわんと近づいてきた。
「ちょ——待て待て待て待て!」
びちゃ! と足緋が座っていた床にゲルが爆ぜる。間一髪後ろに飛び、廊下に転がった足緋は、丁度立てかけておいた真新しい自在箒を手に取り、警棒よろしく中段に構えた。
「タルくて放っぽってたが、偶にゃあ掃除も必要か……!」
威嚇のために軽く振っていると、奥の方から続けざまにぼん、ぼんと音が鳴る。そしてすぐに形を作ると、無数のゲル生命体が一斉に押し寄せてきた。
「げェッ、まだ出てくんのかよ!」
どたどたと廊下を駆け抜け、広い居間へと転がり込む。
その間にもゲルたちは洗面所から無限に増え続け、半ばドアを破壊するようにして居間に拡散した。
「共食いはどうしたよ、仲間の身体は食い飽きたってか?」
軽く40はあろうかという数だった。先ほどよりずいぶんと人の形に近づいてはいるものの、まだ緑色にどろりと溶けているそれらが、不規則な動きで足緋に襲い掛かる。
「チッ!」
箒を横に構え、防御の体勢を取る。が、ゲルはそれを予期したかのようにすり抜け、足緋の脇腹に噛みついた。
「ぐううっ!!」
痛みで腕を引き、力任せに肘で殴る。すればゲルはすぐに形を崩し床に散らばっていく。
(なんて嚙む力だ)
嘲笑し、血のにじむ脇腹を押さえた足緋は低く腰を落とした。箒の柄を限界まで長く握りこみ、渾身の力を持以て一閃する。
「うおらああァァッ!!」
すると、横薙ぎの軌道にいた者らの頭が一斉にはじけ飛んだ。柄についたゲルがびしゃりと壁に飛沫を飛ばす。
大きく息を整える足緋だったが、居間の扉より追加で現れるゲル生物の姿に舌を打った。
「クソッ! キリがねえ」
近づいてきた数体を脚で薙ぎ払い、足緋は広い部屋を見渡す。
ゲル生物たちは、噛む・喰うという行為に特化しているためか、防御力は著しく低かった。ただのプラスチックの棒で一部を叩くだけで、すぐにその戦意を喪失する。
足緋の家の周りは、スクラップ置き場や廃墟が多い。人がいない方が落ち着く、と足緋が自分で選んで購入した土地だからだ。故に滅多に人は通らない。
状況があまりにも特殊なせいで、通報しようがまず信じてはもらえないだろう。
——助けは来ない。応援も絶望的。
(まあ——そも呼ぶ気はねえが)
現状、ゲル生物たちの殺意は全て自分に向けられている。狭い室内であれど、若返った今の自分なら戦える。そんな根拠のない自信が、足緋にはあった。
「来いよ、スライムども」
挑発するように笑えば、ゲル生物たちは呼応するかのように飛び掛かってきた。
————どれほどの時が流れただろうか。
閑静なはずの蛇端の端で、小さな破壊音が響き続けている。
ぐじゅり、ずるりと繰り返される一軒家の一室で、一人の男が立っていた。
白髪ではあるが、見目は20代前半。高い上背と筋肉は
既に折れた箒の柄は、彼の大きな手に心もとなく握られている。まばらに尖ったそれは、目の前の柔らかい身体を引き裂き、真っ二つに分けた。
無数に表れる未確認生命体、対、たった一人の元警察官の男。
戦力差は——なんとほぼ互角であった。
ゲル生物たちの攻撃力は、確かに凄まじかった。鋭く発達した顎が体に食い込めば、筋肉質な足緋の腕ですら噛み千切られてしまう。
痛みは何よりも身体を怯ませる。そうやって少しずつ体力を削り取って、ゲル生物たちは人の足緋を数で押し潰すつもりであった。
しかし、対する足緋の強みは、その体力にこそあった。現代人に無い、並外れた忍耐力。
足緋は腕を食いちぎられても尚、得物を離さなかった。むしろそれを食わせてやったと言わんばかりに振りかぶり、そいつを木っ端みじんに弾け飛ばしてしまうほど。
——しかし、そんな化け物じみた男にさえ、限界は近づいていた。
荒い吐息が大きく響く。
足緋は前傾姿勢を取り、内腿の崩れた右脚をかばうようによろめいた。半開きの口からは粘性のある血が垂れ流され、畳を赤く汚していく。赤く淀んだ瞳はもはや何も映してはおらず、生きているのはこの場の状況を察知する聴覚のみだ。
3,40体を常にキープしていたゲル生物たちの数は、今や10程度にとどまっている。それらは動かない足緋をぐるりと取り囲み、襲い掛かるタイミングを見計らっていた。
——ふと、内1体が足緋の間合いに躍り出る。
びちゃ、と小さく音が鳴った途端、足緋の長い脚はその頭部を的確に蹴りぬいた。ぱん、と軽快な音がして、その身体は仰向けに倒れていく。
足緋の後ろにいた4体が、好機と足緋の身体に飛びついた。鋭く鮫のように尖った牙が肩口や二の腕に食い込み、足緋の身体に鋭い痛みと共に意識を呼び戻す。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あアアッッッ!!!!」
乱暴に引きはがすと、牙と共に自らの肉片が剥がれ落ちた。ぐらぐらと揺れる視界の中、それでも足緋は威勢よくゲル生物たちを睨み返す。
「————るか……」
ぷっ、と口に溜まった血を吐き出して。
「死んで、たまるか、ンな所で————!!」
うわ言のように、繰り返す。足緋の身体を今動かしているのは、もはやその言葉だけだった。
血にまみれた脚を踏み込み、目の前に拳を振りぬく。目の前の一体が胴ごと弾け飛び、そしてまた、周りの数体が足緋の身体に追いすがった。
がぱりと口を開いたそれらが体に届く前。足緋は握った拳を薄く開き、振りかぶった。
「オオオッッ!」
すべての指を軽く曲げ、真一文字に一周、振りぬく。大きな熊に引き裂かれたが如く、間合いのゲル生物たちは飛び散り、霧散した。
静寂が訪れる。
悠然とそこに立ち尽くした足緋は、噛みしめた歯の隙間から「シイイ」と息を吐く。そして。
がぢん!
丁度、真右。死角から不意を狙った最後の一体の頭を鷲掴む。
「俺は————」
親指がその尖った口の中に食い込み、ゲル生命体はそれをぎちぎちと噛んで脱出を図る。
「俺は、ガキの頃から自分に誓ってんだ——そうやって、ここまで生きてきた」
肉の切れる水音が、骨を断つゴリゴリという音に変わる。足緋はその痛みをもろともせず、その手のひらに力を込めた。
カッと見開かれた両目が語るのは、煮えたぎるような怒り。目のない化け物を射殺さんばかりに睨みつけ————。
「——『
ばぢゅん!
爆ぜる音が、部屋に響いた。
今度こそ、訪れる静寂。
瞬間、足緋はその場に膝をついた。
「はっ、はあっ……ゲホ、ゴホッ!」
脱力感と共に、忘れていた全身の痛みが足緋を襲い、脂汗が滲み出る。口からどす黒い血がごぽりと溢れ、じくじくとした内臓の痛みで、足緋はその場に蹲った。
何とか起き上がろうとするも、足緋の四肢にできたのは四つん這いが関の山だった。
小鹿のように震える腕も足も、クレーターのようにボコボコと穴が開き、既にその機能のほとんどを失わせている。先ほど食わせた親指の他にも、手からは指がいくつか根本や関節から無くなっていた。
「ッ、はは。これでよく動けたなァ、俺ァ……」
霞がかかり始めた足緋の視界に、ふと——畳に広がる彼奴らの残骸が映る。
黄色だか、緑だかわからない色をした肉塊はドロドロと液状に溶け、グロテスクで大きな塊のみを残している。
————ごくり。
それを目にした途端。足緋の喉が、不相応に音を鳴らした。
美味しそう、と思ったわけではない。
ただ生きなければと思ったのだ。
ふわふわと浮いた頭でそれに近づき、手を伸ばしたところで————。
足緋の意識は、完全に落ちた。
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