第4話 不穏な気配


 ————夜。時刻は8時を回った頃。

 すっかり静まり返ったベッドの群れの一角で、足緋たるひはそっと絵本を閉じた。

 物音を立てぬよう、脇に乗せていた脚を引くと、絵本の続きをせがんでいた子供が身じろぎをする。腹まで落ちた毛布を拾い上げ、その子の首元までしっかりとかけなおしてやると、足緋はそのまま、静かに部屋の電気を消し退室した。


 昼より若干明度の下がった廊下を歩き、『管理者室』とプレートのかかった扉の奥へと進む足緋に、また天から自動音声が降り注ぐ。

『お疲れ様です、園長』

「おう」片手を上げながら進み、足緋は中央の椅子へと腰かける。

『園長業務は終了しています。あとは私がチェックをしますので、ご帰宅いただいても問題ありません』

「……なあ、その『園長』って呼び方やめねえか? いい加減むず痒い」

 うんざりとした顔で天井を見上げる足緋に、ぴぴ、と電子音が相槌を打つ。

『園の管理者を園長と呼ぶことは、何か間違っていますか?』

「あ——……うん、じゃあいいよ」

 足緋は、外国ドラマの演者が如く、呆れてぐるりと赤い目を回す。そのまま大きなコンピュータのボタンを操作すると、そこから空中に複数のホログラムウィンドウが映し出された。

 足緋は手元の眼鏡をかけると、目を細めながらウィンドウを睨みつける。

『来週の訪問イベントの資料制作ですか?』

「社会科見学、な。俺とガキたちのしおりぐらい作っとかねぇと、当日ワケわかんなくなりそうでなあ……」

『私のサポートがご入用ですね』

 ウィンドウの一つが音声波形に変わり、IRI’sアイリスの声に合わせて波を立てる。

「……いやあ、できるだけ頼りたくねえんだよ……でもな……」

『園長に、データ制作と効率的な引率は不得意と考えます』

「……ギリギリまではやらせてくれ」

『承知しました』

 既に代替の資料制作を始める画面を端に見つつ、足緋はまた作業画面に視線を戻す。

 限界まで目を細めたあたりで、ふとと眠気が襲った。眼鏡をはずし、眉間を軽く揉んでため息をつく。

『体温の上昇。脳の機能も若干低下しています。お疲れでしょうか』

「昼にちょっとな。久々に走ったから……あー、やっぱ歳だな」

 目をしぱしぱと瞬き、眠気を覚ますべく一度立ち上がる。その瞬間、モニターから小さいアラームが鳴り響いた。

『不審人物の接近を検知しました。Dブロック、検知数は1です』

「裏手の方か? 中に入ってくる様子は?」

『敷地内センサーの反応はありません。検知した敷地外センサーも、現在は通常運転になっています』

 映し出された監視映像に、人影はない。足緋は作業していた画面を全て閉じ、あくびしながら部屋を出る扉へと向かった。

「今日は終いだ。眠くて仕方ねえ、ちょっとのぞいて帰る」

『……向かわれるのであれば、十分な武装をおススメします』

「人は映って無いんだろ? 帰る時にガチャガチャしたくねえからいいよ」

『————承知しました。また朝に。園長』

 気だるげに手を振り、今度こそ足緋の足は出口へと向かった。


 大きな施設をぐるりと外から周ると、裏手に出る。セキュリティ面の観点から裏手に門は無く、建物の周りを囲うように柵だけが走っていた。

 歩きながら辺りを見回していた足緋は、丁度監視映像で見た辺りで足を止める。確かにそこに人影は無かったが、それよりも恐らく悪いものがあった。

「こいつは……」

 赤黒く、柵に絡みつくようにして”べっとり”とついた血液。柵だけではない。真正面の路地からこちらにやってきた血痕たちは、柵で一度大きく水たまりとなり、そのまま足緋の向こう側まで転々と続いていたのだ。

 まさか、と一瞬考える。足緋の経験上、ここまで出血している者は通常まず動けない。 

 もしこれが、『出血している人間を抱えた何者かが歩いている跡』なら、それは確実に何かしらの事件であり。足緋が見逃すことはできないのだ。

「くそったれ……今日はイベントが多いな」

 持っている端末で道を照らしながら、足緋はすぐさま血痕を追う。それは園の柵を沿うようにある程度進み、突き当りにあるビルの隙間へと消えていた。

 ごくりと唾を飲み、足緋は自身の端末で血痕の写真を撮る。そして画面を通話のテンキー画面にし、110のボタンを入力して……一度電源を落とす。

「最終手段だ、最終手段。……何も無けりゃ、帰るんだから」

 昼間の後輩の姿を思い返しながら独り言ちる。ライトの機能だけを使い、身構えながら足緋は奥へと歩を進めていった。


 路地は10mほど行ったところで行き止まりになっていた。そしてその行き止まりで、血まみれの男が一人、背を向けて横たわっている。

「おい……大丈夫か?」

 遠巻きに声をかけるが、反応はない。足緋は辺りを見渡すが、他の人間の気配は感じられなかった。

 そして男に視線を戻したところで、その背が急にビクリと反応する。

「おい……おい! 喋れるか!? 何があった!?」

 急いで近づき、過度に体を揺らさぬように軽く叩く。意識のないらしい男は、足緋の手に反応し、反射で肩を跳ねさせた。

「くそっ……救急車!」

 地面に置いた端末のロックを解除し、通話のテンキーを入力しなおす。119、と打ったところで、男がうめき声を上げた。

「……ぁ゛、ぁがぁ、あ……え゛…ぁだ、ぉえ……」

「意識があるのか!? 喋らなくていいから、楽に————」

 声をよく聞き取るため、男の背越しに身体を乗り出す。顔にライトを当てた瞬間、足緋の呼吸は止まった。


 ぎょろりと虚ろに剥いた目が足緋を映す。

 血と唾液まみれの口が、瞬間、嫌にはっきりと言葉を紡いだ。



「おまえの゛ から゛だ よ こせ」



 次の瞬間、男の首だけがグリンと回転し、足緋に牙を剥いて襲い掛かる。

「う、おッ!!」

 すんでのところで身をよじった足緋は、そのまま一回転して受け身を取った。

 回った首を起点として、男の身体はパーツごとにゴキゴキと回転し、足緋に向き直る。おおよそ人とは思えない動きであった。

「嘘だろ……ゾンビがどうのって噂は本当だったってことか?」

 素早く起き上がり、姿勢を低く保つ。対する男は、またびくりと肩を震わせ、体を急に折り曲げた。苦し気に喘ぐ口からびたびたと血液と共に赤い肉塊が垂れ流される。

(ウイルスか? 感染症なら、ここから出すのは危険だな)

「お前————」

 構えたままの足緋が口を開く、その瞬き一つの間——。

 その一瞬で、男は足緋との距離を詰めた。

「ッ!?」

 予測できない動きに不意を突かれ、足緋はとっさに腕をクロスさせて防御姿勢を取る。男は勢いのままに足緋の腕に食らいつき、尖った爪を鍛えた腕に食い込ませていく。

「よこせよ゛こせよごせよこせぇぇえ゛ええよぉおおおおおぉおお」

 血混じりの唾液が足緋の顔を汚す。尋常でない力で押し込まれるのに抵抗しようと片目を薄く開いた時、不意にその一滴が眼球に触れた。刹那、足緋の脳に鋭い痛みが襲い来る。

「ッッ……!? ぐ、あぁあああアアッ!!」

 じくじくと脳を食い破られるような激しいそれに、足緋は我も忘れて目の前の男を蹴り飛ばした。

 男は足緋の重い一撃にいとも簡単に吹き飛ばされ、突き当りの壁に背中から衝突し、沈黙する。すると、水風船を壁に当てた時のように男の身体は弾け——そのまま、あろうことか全てゲル状に溶けて広がった。

 痛みに耐えながら男の方を見た足緋は、驚愕を顔に浮かべる。

「おいおい……俺ァ、まだボケちゃいねえはずだが……」

 人一人分——そう捉えていいのかは怪しいが——の液体が壁と地面に広がる様を呆然と眺めていた足緋だったが、しばらくしてまた強い頭痛によろめく。

 その痛みは足緋の平衡へいこう感覚すらもおかし、三半規管を容赦なく揺する。ぐわんぐわんと揺れる視界に耐えかねた足緋は壁に手を付き、衝動のままに嘔吐した。つんとした臭いに思わず鼻をつまむ。

「くそ……何だってんだよ」

(病院——いや、この辺の病院は夜に営業しちゃいない。行くなら朝、一番に……)

 考え事ができるほど回復した頭を頼りに、ふらつく足取りの足緋の足は、自らの家へとゆっくり進んでいた。


 ◆


 木造の平屋式一軒家。この時分にしては随分と前時代的な建物の前に、満身創痍の老人が一人。

 保育園からこの家までは徒歩でおよそ20分。その道のりを1時間ほどかけてゆっくりと歩き続けた足緋の顔は、文字通り死にかけのジジイそのものだった。

 一歩進むごとに生命力が吸われていく感覚は、生涯健康の足緋にとって完全な未知。故に足緋は若干の恐怖すら感じつつあった。

「あ゛——ッ……あのクソスライム野郎……気色悪ィ置き土産していきやがって……」

 人を射殺さんばかりに鋭く空を睨みつけ、低く悪態をつく。一時間も歩いていると、これぐらいの恨み言を言っていないと意識がまともに保たなかった。

 最後に大きく舌を打って、足緋はふらふらと玄関の電子ロックを開く。

 数歩歩いては嘔吐きを繰り返し、ほぼ倒れ込むようにしてなんとか居間までたどり着いた。すれば、感知した照明が広い部屋を照らす。

 畳で床が構成された広い部屋には資料や服がまばらに散らばっており、それが中央の敷布団を囲んでいた。

 もはや歩く気力すら残っておらず、足緋は匍匐前進ほふくぜんしんで中央へと向かう。畳の上の紙束を体で押しのけ、敷きっぱなしの布団に転がると大きく息をついた。

「……寝ても、治らなきゃあ……病院だな」

 呟いて、目を閉じる。

 極度の疲労が頭痛に勝り、毛布もまともに被らぬまま。足緋の意識はゆっくりと落ちていった。


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