線画

「いやあ、一回やってみたかったんだよねえ」


 平日より長く真海といられる休日の昼下がり。私と真海は何故か……何故か、いつもの病室を一緒に抜け出している。

 そのきっかけは、何気なく放った私の一言にあった。



「なんだかんだいって入院中は退屈でしょ。したいこととかないの?」


「えっ、ソラが何かしてくれるの⁉」

 似合わないくらい瞳を純粋に煌めかせ、真海は私にすり寄って来た。


「まあ……できる範囲なら」

 これでも私はお姉ちゃんだ。可愛い妹に頼られたいという時期があったのを忘れてはいない。それに、この間はちょっと、嬉しいことを言われてしまったし。

 私は入院らしい入院をしたことがないから、この一室だけで一日を過ごすことの大変さが分からない。だから、分からないなりに、せめて少しでも気を楽にしてあげられれば……そんな思いで、私はその言葉を投げかけた。


 真海の次の言葉を聞いた瞬間、前言撤回したくなったんだけどね。



「普通ああいうのって漫画の新刊買ってきてほしいとかでしょ……何だよ病院探検って」

 私たちは現在進行形で病室を空けており、傍から見れば病棟を徘徊している謎の二人組、である。とはいえ私もこの院内では名が知れているし、今更怪しまれたりは……いや、どうだろう。


「良いじゃん。可愛い妹のために……さ」


「可愛い妹? どこにも見当たらないんだけど」


「そんなこと言って、ソラも付き合ってくれてるじゃん」


「病人一人だと危ないでしょうが」

 本人によると、真海の体調はすこぶる良好。この状態が続けば退院の兆しも見えてくるという状態らしい。だからこそ安静にしてるべきなのに……

 第一、院内を歩き回って何が楽しいんだろう。彼女の中では、小学校入学直後にやる学校探検の気分だとでもいうのだろうか。


「おっ、良い構図」

 窓際の道を行く途中、真海は両手の親指と人差し指で長方形を作り、目の前の景色をフレームに収める。


「こんなとこでも絵かい」


「私のライフワークだからね。私もうソラと絵なしじゃ生きていけない」


「私と同列なのかよ。てか退院したら自立しろよ」


「やだ……入院してればずっとソラが甘やかしてくれるから、私ずっとここにいたい」


「……冗談でもそんなこと言うもんじゃない」

 口ではそう放っていたけれど、どうせ退院したってすぐにはあの生活は変わらないだろう。本人が良いって言うなら、いっそのことそれも良いんじゃないかという気持ちが生まれ始めていた。

 だから、こんなことをして真海の体調が急変することへの不安も、とうに抜け落ちてしまっていた。



「この階はもう全部見て回ったでしょ。次はどうすんの?」


 私もちょっとだけ楽しくなってきて、リードするような姿勢で真海に話しかけたとき、私の隣にその姿はなかった。


 代わりに、苦し紛れに発せられる声とうずくまる彼女の姿が、私の後方にあった。


「真海……? 真海っっ‼」



────────────────



「ねえ……本当に何ともないの?」


「大丈夫大丈夫。ちょっとめまいがしただけだから」

 彼女はそう言うが、蚊帳の外で待たされていた私の危機感は、言葉で表せないほどであった。

「でも……」


「さて~、ちょっと休んじゃってた分、追い上げてすぐに取り返しちゃうから。完成したらちゃんとソラにも見せるからね」

 まるで何事もなかったようにあまりにも気楽な真海を見ていたら、案じる気持ちを無碍にされたような気がして、心にもない言葉が湧き上がってきた。


「ふざけんなよ……」

 私は彼女の右手からペンを奪い取り、地面に叩きつけた。


「ソラ……?」



「私があれだけ心配してたのに……なんでまだ……そんなの描いていられるんだよっ!」



「……ごめん……そんなつもりじゃ」

 がくがくと震える真海に、私は何も答えず病室を出た。決して作ってはいけない分岐点だった。

 それから先、彼女は私が来た時に一切絵を描かなくなった。タブレットとペンは普段通り傍らに置いてあったから、きっと隠れて描いてはいるんだろうけど。

 気持ち悪いくらい自然だった笑顔も、あからさまにぎこちなくなって。私の前で何かを隠し、必死に取り繕っているようで腹が立った。けど、今更謝る気にもなれなかった。今日こそはと思い立っても実行に移せない日々が続く。

 最低限の物だけ置いて行って、最低限の言葉だけ交わして。そんな無機質で非情なやりとりの繰り返しになっていた。

 私と真海の関係に比例し、彼女の容態もどんどん悪化し始めた。本当なら退院できると見通しが立っていた時期は無情にも過ぎ、病は彼女を狭い部屋に閉じ込め続けた。

 私の方はというと、仕事が繁忙期へ突入し、真海の元を訪れる機会は少なくなった。差し入れは既にあまり食べなくなっていたし、私が会いに行くこと自体にほとんど意味がなくなったと思い込んでいたのだ。


「暁……なんかあった?」


「えっ?」


「いつにも増してつまらなさそうな顔……してたから」

 席の近い課長に問われ、私は慌てて心に蓋をする。


「す、すみません。ちょっと最近運が悪い日が続いてイライラしちゃって。仕事には支障が出ないようにしますので」


「……そう」

 彼女の優しさが辛い。本当は心の奥側まで見抜かれているのかな。

 真海のために時間を作ろうと思えば作れたのだけど、期間が空けば段々気が引けてきて、私がいなくてもあいつなら何とかやるだろうと、慢心していたのだ。


 その判断が、私自身に一生分の後悔をさせるなんて、考えようともしなかった。



「暁さんっっ‼」

 夏休み商戦に向けての大事な会議を控えていた休憩時間、同僚の一人がえらく慌てた様子でオフィスに駆け込んできた。


「妹……さんが……」


「えっ……?」


 その先にある言葉を聞く前に、PCも畳まずに飛び出していた。歩いていても苦には感じないいつもの道のりが、今日はやけに長く感じてしまう。

 やっとのことで真海の待つはずの病室へ辿り着いた時、目に入ってきたのは信じたくない光景だった。


「どうして……この間まで……あんなに……」


 スマホとタブレットは床へ放られ、黒い画面が病室の天井をうっすらと映し出している。本人は目を瞑り、私が来たことにも全く無反応。彼女は、意識を失っていたのだから。

 記憶の中に残るいつも笑顔を忘れなかった彼女と、目の前に映る酸素マスクに繋がれた彼女を、とても同一人物として見ることができなかった。担当医から症状の変遷を聞いたが、そんなもので納得できるわけがない。心電図を流す機器の音が、一定のリズムで私の精神を抉り続ける。


「真海……真海……!」

 何度も、何度も訴えかけた。一生分の幸運を使っても良いから、私の身体と取り換えたって良いから。そんな私らしくない祈りも捧げた。


 だけど、奇跡なんてものが都合よく起こってはくれず、嵐のような一週間が過ぎ去ると同時に、真海の命も終わりを迎えた。

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