ハーミット
全知のポンチョの部屋を離れ、碁盤の目のような廊下を幾度か曲がり、十分ほど歩いた突き当たりの部屋の前で、瑪瑙の足が止まった。その部屋もまた他と同じように厚ガラスがついていたが、内側から金属製のシャッターも下ろされていた。
「いまからナギくんには、
「異色……つまり、人間じゃない?」
「どうだろう。人間かもしれないし、人間じゃないかもしれない」
ナギはふんふんと頷き、囁きかけるようにいった。
「
「え?」
振り向く瑪瑙に、ナギは微笑みかけた。
「サトリです。人の心を読む妖怪。昔、アトランティスに書いてありました」
「ナギくん、お姉さんのこと妖怪だっていってる?」
「違いますよ」
ナギは無色透明の笑顔で答えた。
「人間じゃないかもしれないってだけです」
「――まあ、これは人間じゃないよねえ」
瑪瑙は慣れた様子で横髪をかき上げ右耳の補聴器を指で叩いた。振り返り、扉の前まで先導し、厚い気密扉の横のパネルを操作した。内部からマイクを通したくぐもった声が返ってきた。
「一等調査官、
分厚い鋼鉄の塊を支える圧縮空気の抜ける音とともに僅かに扉がもちあがり、音もなく通路側に開いた。扉の奥は狭い小部屋になっており、また扉がある。小部屋に入ると背後で扉が閉じられ紫外線照射がおこなわれた。殺菌後、また奥の扉が開く。
瑪瑙に続いて扉を潜ると、外と同じく厚いガラス窓を置いた長細い部屋にでた。部屋は様々な機器がとモニター類が並び、白衣にマスクをつけた研究員が三名、黙々と作業している。そして、ガラス窓の向こう側――
「……すごいですね」
ナギが呟いた。
その白い部屋には、美しくも醜悪な肉塊があった。
「人間ですか?」
ナギが問うように呟く。
肉塊はたしかに人に似た形をしていた。ほとんど坊主頭といっていいほど短く刈り込まれた茶色い頭に、酸素吸入マスクをつけた美しい女性の顔がついている。四肢といって差し支えない細く長い手足には幾筋もの点滴チューブがつながれ、白磁に似た白い肌は白い部屋にあってなお白い。女の、人にあるまじき角度まで変形された骨盤の、大きく左右に開かれた足の間――薄い繁みの奥にまで、周囲に置かれた機器からケーブルが差し込まれている。
なぜ骨盤が変形しているのか。なぜ酸素吸入機をあてられ各種輸液を流されケーブルに繋がれているのか。理由は肉塊が雄弁に語る。
その異形は、女の腹にあった。
大きく、大きく、成人がすっぽり収まるほど硬く張り詰めた腹は皮膚が伸び切り薄っすらと内部の肉の赤を晒し、さらに奥にいる何者かの影すらも透かす。巨大な肉塊の陰に覗く豊かな胸も腹と同じく稲妻に似た赤黒い線に覆われている。妊娠線だ。
「彼が
いって、瑪瑙が試すような目をして振り向いた。
ナギは長い
「彼ってことは、引きこもりさんは――」
「そう。お母さんのお
引きこもりは二十年前に収容された異色だ。はじめは極めて特殊な異常妊娠の一つとして医学系学術誌に報告され、母子ともに健康であり、また母親が帝王切開による強制出産を拒否したため経過観察するとされていた。
平凡維持機構はすぐに調査官を派遣し、目視による異色認定をもって、提出された症例報告の取り下げと関係者の記憶洗浄を行い、これを収容した。収容時すでに妊娠から二年が経過しているため、正常に誕生していれば二十二歳になる。
「引きこもりは半年くらい前に誘拐されてて、この間の――ほら、ナギくんを捕まえた突入作戦で救出に成功したの」
「拐われたんですか?」
ナギはガラスの向こうの引きこもりと瑪瑙の間で視線を往復させた。
「そう。誘拐。そのときは支部にいたんだけどね」
「……どうやって?」
呟き、ナギは前に進み出て、モニター類の並ぶ机とガラス窓を挟んで引きこもりと向き合った。慶隆が横に並び拘束衣で固められたナギの腕を掴む。
「それはこっちが聞きたいくらいだよ。サークルなんだろ?」
「わかんないです。僕はアプレンティスじゃありませんし」
ナギの発言に、慶隆と瑪瑙が素早く視線を交わし頷きあった。
ガラスの向こう側、母体の大きく膨らみ張り詰めた皮膚と肉の奥で、
「はじめまして、
と、若い男性の声音に似せた合成音声が読み上げた。
ナギは瞬きをしながら横の慶隆、瑪瑙と順に顔を振った。二人とも、してやったりとでもいいたげだった。
「――ああ、驚かせてしまって申し訳ない。僕です。
「えっと……はじめまして」
いって、ナギは少し頭を下げ、続けた。
「ごめんなさい。拘束衣が邪魔で」
「お気になさらず。僕もあまり躰を動かせないのでお互い様です」
「えっと、どうやって聞いてるんですか?」
「そこのマイクです。映像はモニター上部のカメラから。監視カメラの映像は封じられてしまっていますが」
「というか――」
「ああ、電波を使っているらしいですよ? 僕にはよくわかりませんけど」
ナギは鼻で小さく息をついた。
「そうではなくて、僕、本当はナギっていうんです」
「そちらですか。……なるほど」
合成音声が止まり、しばらく間を置いてから、また鳴った。
「どんな人だろうと思っていたんですが、予想以上に興味深い方ですね」
「そうなんですか? 僕は普通のつもりなんですけど」
「いえいえ、萌芽の監視カメラで見ていて、ずっと話してみたいと思っていました」
「えと……なんてお呼びしたらいいですか?」
合成音がしばらく止まり、
「――ハッ、ハッ、ハッ、ハッ」
と、笑い声を立てた。見れば、ガラス窓の向こうで大きく膨らんだ肉体も微かに揺れていた。
「ハーミットで構いませんよ。名前はまだないんです」
「まだ生まれていないからですか?」
また、ハーミットが笑った。
「その通りです。言葉も喋り方も知っているのに、まだ声も出せないんですよ」
「肺も喉も羊水で詰まってますもんね」
ハーミットのどこか機械的な笑い声が繰り返され、瑪瑙と慶隆が顔をしかめた。
研究員たちは、何事もないかのように黙々と作業を続けていた。
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