平凡なツアー
*
ナギは真っ白い拘束衣に袖を通し、背中側で両腕の固定にかかる慶隆に尋ねた。
「
「なんだそりゃ?」
「映画で見ました。噛みつかれないように口に被せる――」
慶隆が鼻を鳴らし、ナギの正面にいた瑪瑙がいった。
「映画を見せてくれたのは
「はい。情操教育だそうです。選んだのは別の人ですけど」
「別の人?」
「はい。銀のマッチを咥えてる人です」
「燃えろ燃えろすべて燃えろ――か」
瑪瑙の目が冷たさを増した。
ナギは両腕を強く締め上げられて幽かに肩を跳ねた。
「なんですか、それ」
「アースニスト。銀のマッチの男はそう言ってた」
「クイカイマニマニ――じゃなくてですか?」
「ええ。そのなんとかっていうのは知らない」
瑪瑙は鋼のように硬い笑みを浮かべていた。
「あいつは私の母と弟を焼いた」
「お父さんが焼かれなくてよかったですね」
瑪瑙の表情は変わらない。肩より少し長い黒髪を揺らして背を向けた。
「それじゃ行きましょうか」
その言葉を切欠に、慶隆がナギを追い出しにかかった。ナギは背中を小突かれながら口を開く。
「お母さんと弟さんが焼かれたのはいつですか?」
瑪瑙は顔も向けずに答えた。
「ずっと昔の話」
「なら違う人なんですかね? 僕の知ってるのは――」
「でしょうね。
先日までと同じようにエレベータに押し込み、今度はさらに地下に降りる。異色とみなされた収容物を研究・観察する階域のなかでも、比較的安全かつ有用性が確認されたものが集められているゾーンである。
廊下のつくりはナギの収容されている階よりも広く、行き交う人間の数も多い。ほとんどは研究職という名目で配属された白衣の若人であり、極小数の警備員がスタンバトンを片手に巡回している。また、瑪瑙や慶隆のように私服で
異色が収められている部屋は室内を見通せるよう壁一面が厚さ三十センチの強化ガラスになっており、見た目には世の中のどこにでもありそうな物と一緒に研究員が詰めていた。
たとえば、緑の取っ手と小さな名札のついた子供用の鋏であったり、テレビ用としか思えない大柄なリモコンであったり、ゴムバンドで頭に巻き付ける箱型の金網であったり、赤い自転車――俗にいうママチャリなどだ。
ナギは各部屋のガラスを覗き、いちいち興味深げに目を見開き、感嘆ともとれる息をつきながら歩いていく。そして――
「あ。猫さん」
と、足を止めた。視線の先、厚ガラスの向こうに、白いテーブルの上で丸くなって眠る一匹の猫がいた。顔の右半分がほぼ茶色で、左半分がほぼ黒の、いわゆる錆猫あるいは雑巾猫と呼ばれる毛並みだ。
「止まんなよ」
いって、慶隆がナギの背中を突こうとした。しかし、ナギは予見していたかのようにするりと躱しガラスに近づく。慶隆は咄嗟にジャケットの裾を払い拳銃に手を伸ばす――
「――かわいい猫さんですね」
ナギがガラスに顔を寄せていった。部屋の壁にはキャットウォークとタワーが設置され、爪を立てられたらしいクッションと布張りのソファーがあった。また、床にはタイマー式の給餌器と淡い青色の水皿がみえる。
瑪瑙は銃を抜こうとする慶隆を肩に手を置いて
「見た目はかわいいけど、なんでも知ってる食えない猫」
「食べられないんですか?」
「猫は食べないでしょ。――お姉さんたちは全知のポンチョって呼んでる」
「ポンチョって名前なんですか?」
「正確にはポン
「女の子なんですね」
ナギは額を軽くガラスにぶつけた。猫は何の反応も示さない。
「全知っていうのは?」
「まんま、全知だよ」
慶隆が苛立ちを抑えるように低い声でいった。
「全知球っていう……賢者の石みてえな……文献が真実なら、過去・現在・未来のすべての知を収めたらしい石があってな。それを使っちまった猫だ」
瑪瑙が懐かしげに微笑み、語り始めた。
最初はアレクサンドリアの遺跡から発見されたという曰くの石でしかなく、最新の古遺物として博物館に展示された。平凡維持機構はすぐに
「使ったのは間違いないんですか?」
「複数の調査官が異色だと判断していたんだけど、ポンチョが触ってからは異色の気配が消えちゃったの。色も変わっちゃったしね」
諦めの混じる声でいい、瑪瑙の指先がガラスをコンと叩いた。
「あれが全知球。元はルビー色だった」
目を凝らしてみれば、ポンチョの前足が灰色の石を抱えている。
「博物館に迷い込んだ猫が触れた途端に石の色が変わって、ついでに猫から異色の気配を感じるようになった。状況から鑑みて猫が使用したと考えるのが妥当だろ」
慶隆が瑪瑙の話を引き継いだ。
幸い開館中の出来事だったためネットに無数の動画と画像が溢れた。人海戦術という人の叡智により千葉の迷い猫と判明し、主人の元に帰ったことも明らかになった。
「回収にあたったのは俺と瑪瑙だ」
「その頃からコンビだったんですか?」
「ううん? たまたま」
瑪瑙が話を引き取る。
「慶隆くんが捕まえようとしたら逃げられて、ヘリとドローンまで使って追いかけて、最終的にはお姉さんが説得したの」
「説得ですか」
「大人しく捕まらないなら飼い主をやるぞ、ってね」
「それ脅迫ですよね?」
ナギが眉間に細かな皺を寄せて瑪瑙を見やった。彼女は小さく肩を竦めた。
「過去・現在・未来のすべてを知ってるってことは、拒否したらどうなるか知ってたってことですよね? だから出てきた。脅迫です」
慶隆が口の中で笑った。
「お前は全知派か」
「全知派?」
「ああ。こいつ猫らしい行動しかしねえからな」
「えっと……」
「そもそも全知なら捕まらずに逃げられたはずだろ? なのに捕まったってことは全知じゃないってのが無知派。わかったうえで捕まったと考えてるのが全知派だ」
ポンチョは平凡維持機構にとって異色の猫だが、一般人にも特別な猫と映る。やることは日がな一日、寝るか、遊ぶか。様々な実験をおこなったが賢い猫との区別はできていない。
「……それこそポン千代さんの全知性を表してるんじゃないですか?」
呟くようにいい、ナギは額をガラスに押しつけた。
「はじめまして。ポン千代さん。ナギです」
「残念。このガラスの防音性は――」
と、瑪瑙が言いかけると、
「あ?」
慶隆の疑問が遮った。寝ていたポンチョが眠たげに瞼を持ち上げ、ナギと視線を交わし、首をもたげたのだ。
「え?」
瑪瑙もガラスに目を向けた。ポンチョが石の球を押さえたまま口を開いた。鳴いているようにも見える。いわゆる音のない鳴き声だ。
ナギが幽かに頷きいった。
「はい。よろしくです」
慶隆は彼の背中越しに瑪瑙に視線を送った。
彼女は硬い笑みのまま首を左右に振った。
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