戦闘試験記録

 対峙を求められた男は、薄く微笑みながら無造作に歩いてくるナギに対し、まず数歩の距離を取った。遅れて、周囲にいた他の男女もざわめきながら場所を開く。ナギの左手がなにかを求めるようにすぅっと伸びた。そのまま、歩き続ける。


 男は強張った肩をほぐすように躰を揺すり、軽くステップを踏んで、自身に向かって伸ばされた左手の外側へ移動していく。サークリングと呼ばれる足の運び方であり、敵の最も強力と思われる武器――ナギの右手を封じようとしている。


 ナギは一旦、伸ばしていた手を下ろし、男が正面にくるように向きを変え、また手を伸ばして歩きだす。また男がサークリングを行い、ナギは手を下げ――同じことを三度も繰り返す間に男はナギとの間合いを詰めていた。


 伸ばされたナギの手と、ファイティングポーズを取る男の左手が触れるか触れないかという距離だ。男の手は折りたたまれ、ナギの手は伸びている。男は踏み込めば腕を伸ばすだけでよく、ナギが打撃に転じるにはまず腕を引くか奥にある腕を振るしかない。距離、角度、もちろん想像しうる戦闘速度の点から見ても、どちらが有利なのかは明白だった。


「――シッ!」


 と、男が短く息を切り、ナギの左手を外に弾いた。男が踏み込み、僅かに重心を下げながら、引き絞っていた右腕を伸ばす――が、しかし、男は右のストレートパンチを素振そぶりだけ見せ、すぐに下がった。フェイントだ。


 ナギの表情は変わらなかった。躰も、なんの反応も示さなかった。また無造作に手を伸ばし、近寄っていく。一見してなんの変哲もない牽制の応酬である。


 けれど、男の顔には冷たい汗の粒が浮きはじめていた。


 男が牽制のリードジャブを伸ばす。ナギの動きは変わらない。男が距離を取り、ジャブを伸ばす。ナギの反応はない。サークリングの向きを変えてみせ、すぐに戻すがやはりナギの反応はない。男は一瞬、腕を下ろし、すぐに構えを取り直した。

 

 二人のやりとりを見守る警備員たちは明らかに動揺していた。落ち着きなく互いの顔を見合い、先頭に立たされた男への視線に哀れみや祈りに似た色が乗る。一方で瑪瑙の眼差しは冷徹な猛禽に似て鋭く、慶隆は目を向けるのも嫌そうに唇を舐めつ噛みつしている。


 ふいに、ピタリと男の足が止まった。ナギが左手を伸ばしたまま近づく。男が前に踏み込みその手を払いにかかった。


 ナギが手首を返し、男の、払いにきた腕の袖を掴んだ。


「――ゥッ!」

 

 と、短く呻き、男はナギの手を振り払おうとした。けれど、ナギは腕こそ揺らされても固く握った手指を離さない。当然、そのとき男の足は止まっていた。またナギの足は歩みを続けていた。


 男が狭まる間合いに気づいて下がった――いや、下がろうとした。


 ナギが、思い切り袖を引いた。


 いったいどれだけの力だったのだろう。袖の生地が裂けるような音を立て、男の躰はバランスを失った。まるで後ろから蹴りつけられたかのようにナギとの間合いが急激に縮まる。

 

 ナギの靴が床を軋った。右手が、硬く握られた拳が放たれる。瞬間、男は攻撃の意志を捨てた。引きつけられて前に出た左の肩と、自由に動く右の前腕で、自らの目と顎を守りにいった。


 ゴッ! と鈍い音を響かせ、ナギの拳が男の防御ガードに衝突した。打たれた右前腕が、ちょうどナギの拳がめり込んだ位置から折れ曲がった。ナギの拳は防御を打ち抜き男の顔面を捉えた。頭が、ガクン、と一度、そっくり返った。


 その醜い音には、いったい幾重の音が重ねられていたのだろうか。男の腕の骨が折れる音、衝撃で肉が爆ぜる音、皮膚の裂ける音、そして、声にもならない悲鳴――。


 男の右手がだらりと下がり、正位置へ戻ったばかりの、やや膨らんだ顔から鼻血が垂れた。ナギの、袖を掴む手が、腕をさらに引き寄せながら袖を離した。打撃をもろに受けとめたからだろう、男の足は柔らかい床に踏ん張るだけで精一杯に見える。


 ナギの左手が男の襟首を掴み直した。拳を引いて、顔を狙っている。

 男は意図に気づき、自由を許された左の腕で顔を守りにいった。その姿は、ほとんど恐怖に震え目を覆う子供のようだった。


 ナギの拳が、男の左腕ごと顔面を打った。今度は大きく男の首が反り、男の着ていたシャツのボタンが弾けて飛んだ。男の膝から力が抜けた。反った首も戻らない。


「そこまで! やめ!」


 瑪瑙の凛とした声が響く。まだ男の首は繋がっている。折れてもいない。

 ナギが男の襟首を引き寄せるようにして揺すぶり、男の首を起こした。服が破れ緩んだのを嫌っているのか、ナギは大きく開いた左右の襟を取り、首を締めるように纏めて掴みなおした。瑪瑙の眉がピクンと跳ねた。


「ナギくん! やめ!」


 ナギの拳が、男の顔面を打った。拳が頬骨を砕き激しい音を立てた。警備員たちが短な悲鳴をあげた。慶隆が弾かれたように振り向く。ナギは拳を引き絞っていた。


「ナギ! やめ! あなたの勝――」


 ナギの拳が男の上顎を砕いた。折れた歯がぼろぼろと床に零れ落ち、大きく歪み引き裂かれた唇から滝のように血が溢れた。


「ナギ!」


 瑪瑙がコートの裾を払い、拳銃に手を乗せた。ナギの拳が、男の下顎を真横に打ち抜く。悍ましい音を立てて顎関節が破壊され、男の下顎が横を向いた。


「やめなさい!」


 瑪瑙が銃口を向けると、ナギが拳を引き戻したまま顔をあげた。


「どうぞ、撃っていいですよ」


 いって、ナギは拳を振るった。拳はほとんど顔面に埋没しているように見えた。粘着質な水音を立てながら拳が戻る。


「ナギ!!」


 慶隆も銃を抜いた。ナギが拳を振るった。


「やめろ!」


 一発。すっかり力の抜けた男の躰がビクンと跳ねた。


「おい!」


 二発。男が失禁しはじめた。顔の下半分は完全に崩壊している。


「あなたたち!」


 瑪瑙が警備員たちに吠えた。三発。呻くような、嘆くような、奇妙な呼吸音が、男の口があった空間から漏れでた。


「なにしてるの!? 止めなさい!」


 四発。素手の警備員たちは首を巡らす。五発。一人が叫びながらナギに向かって駆け出そうとし、転んだ。六発。しかし、それが切欠になったのか我先にと警備員たちが飛び出す。七発目――。


「はい、おしまい」


 いって、ナギは右手を下ろした。いままさに飛び掛かられるというときだった。警備員たちが半ば恐慌に陥りながら足を止める。押し出される格好になった一人が足をもつれさせてナギの前に倒れ、慌てて尻で床を磨きながら下がった。


 ナギは男の後ろ頭を右手でそっと支えると、病人をいたわるるような手付きで床に寝かせ、悠然と立ち上がった。


「次はどなたですか?」


 ナギは真っ赤に染まった拳を胸元まで持ち上げた。


「それとも、僕の勝ちで終わりにしますか?」


 いって、ナギは返り血の飛んだ童顔に笑みを浮かべたまま首を傾げた。

 警備員の一人が奇声を発し逃げ出した。床に散った小便に足を滑らせ転んだ。一人は完全に放心して動けなくなった。二人が涙を流し許しを請う。次々と凶乱に陥り場は地獄へ変貌していく――


 警備員たちの精神崩壊を理由に、戦闘試験は中断を余儀なくされた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る