丁々発止
「言語が途中で消えて、目が動いた。たぶん、映像かな? 次は何かの音を再生したんだと思う。それからもう一度、心の声で考えた。アブラカダブラ――違う?」
ナギが楽しげに肩を揺らした。
「凄いですね。でも最後はちょっと違います。アブラカダブラと唱えながら、そう書かれた紙を想像してみました」
「ヘブライ語だっけ? ごめんね、お姉さん、あんまり詳しくないんだ」
そういう瑪瑙の斜め後ろで、
ナギが口を開く。
「映像までは読み取れないんですね」
「補聴器だからね。声や音は聞こえても映像は聞こえないでしょ?」
ふむふむと頷きながら、ナギが一歩前に出た。瑪瑙は素早くコートの裾を払いヒップホルスターに下げた拳銃に手をかける。
「こっちに来る前に、その背中に隠してるもの出してみようか」
ナギが小さく首を傾げると、瑪瑙は瞳に余裕を残したままいった。
「何も持ってないのに? そういう嘘、お姉さんは嫌いだなあ」
油断なくナギを警戒しつつ、瑪瑙の左手が天井付近を指差す。
「知ってるんだろうけど、カメラがついてるんだよね。こっちに来る直前までの映像を見せてもらってるの。なにを作ってたのか、見せてもらえるかな?」
「意外とちゃんと見ているんですね」
「慶隆くんとは違うからね」
いって、クスリと微笑むが、しかし瑪瑙の視線はナギに固定されている。彼女の背後で慶隆が拳銃を抜き、手を垂らした。
「そこに置いて、足でこっちに――」
「ダメ」
瑪瑙は即座に制止した。慶隆がやりづらそうに顔を歪めた。
「足元に置いて三歩下がって」
「わかりました」
ナギは二人に見えるように紙のナイフを置き、指示通りにした。
「慶隆くん、カバーお願い」
「カバーって?」
「ナギくんに銃を向けるの。変な動きをしたら迷わず撃つ。胴体を狙って」
「――アイ、アイ」
慶隆が銃を構え、瑪瑙は慎重にナイフに近寄り腰を屈めた。視線は常にナギに向いていた。ナイフを拾い上げ、そのままゆっくりと後ろに下がっていく。
「だんまりが上手いね」
瑪瑙はいった。
「普通の人なら二十秒も我慢できたら凄いほうなんだけど」
「そうなんですか?」
「だねえ。こういう状況なら、だけど。完全に映像だけで物事を考えられる人は少ないし、思考は無意識に行われるから刺激があれば反応しちゃう――普通は」
瑪瑙は元の位置まで戻り、ナイフ両手の指先で紙のナイフをたしかめた。
「凄い完成度……これ、人も殺せちゃうんじゃない?」
「はい」
瑪瑙と慶隆は思わず顔を見合わせた。あっさり答えが返ってくるとは思わなかったのだろう。
ナギは変わらぬ微笑みを浮かべたままいった。
「目、鼻、口、耳の開口部と、皮膚や筋肉の薄いところなら刺せますから」
「……お姉さん、これとよく似たのを見たことあるんだよね」
瑪瑙が試すようにいうと、彼女の背後で慶隆が吐き捨てるように呟いた。
「……そのお姉さんってのやめろよ、気味わりぃ」
「だったら早く私より年上になるといいよ。そしたら敬語も使ってあげる」
耳聡く言い返し、瑪瑙はナギに向き直った。
「さて、ナギくん。お姉さんは、これと同じものをどこで見たでしょう?」
「さあ?」
小首を傾げるナギに対し、瑪瑙はこれ見よがしに補聴器をかけた右耳を向けつついった。
「たしか、去年だったかな、一昨年だったかな……都内のワンルームで殺人事件があったの。被害者は当時二十六歳の会社員。精神科と心療内科の通院記録があった。そのとき使われた凶器が、これとよく似たナイフだったの。――まあ、そのときは月刊アインシュタインと月刊アトランティスの合作じゃなくて、被害者本人が描いていた同人誌だったんだけど」
ナギが幽かに背筋を伸ばした。
「同人誌?」
「個人制作の薄いマンガ本かな。ナギくんくらいの歳だと、まだ読んじゃいけないような内容だった。その同人誌の表紙が喉に刺さってたんだよね。死因は頸動脈を切られたことによる失血死。知らない? お姉さんの記憶がたしかなら、まったく同じ折り方だったんだけど」
「覚えてないですね」
瑪瑙はニコリと笑っていった。
「やっぱりナギくんかあ」
「はい? 僕は――」
「普通こういうときはね、やってないとか、僕じゃないとか、知らないとかって答えるの。覚えてないっていうのはね、なにか知ってるか、忘れたふりをしてるか――少なくとも、よく似た事をしたことがあるの』
ナギはぐっと唇を引き結び、一瞬、目を逸した。
瑪瑙が満足げに息をつく。
「凄いでしょ、お姉さん。これからナギくんを丸裸にしちゃうから」
「丸裸ですか?」
「そう」
瑪瑙はニマリと笑った。
「これからナギくんの健康診断をします」
「健康診断、ですか?」
ナギはきょとんとして尋ねた。
瑪瑙は頷きで答える。
「
ナギは目を瞬きながら問い返す。
「――いくらですか?」
「……ん?」
瑪瑙は戸惑いがちに躰を起こし、慶隆に目をやった。彼はすぐに首を横を振った。向き直ると、ナギの澄んだ瞳が待っていた。
「その健康診断って、いくらくらいするんですか?」
「いくら……えっと……お値段ってこと?」
ナギがコクリと頷き、瑪瑙はまた慶隆と顔を見合わせた。かかる費用なぞ一等調査官が知る由もない。やはり首を振り返されて、瑪瑙は胸の前あたりに浮かせた両手で言葉を探すようにくるくると円を描いた。
「……えっと……たしか、人間ドックだと、一日コースで五万円くらい、かな?」
「一日で五万円。すごい」
目を瞠るナギに、瑪瑙と慶隆は口を開きかけてはやめ、口を開きかけてはやめ、
「え……っと……?」
それでも最適な返答が見つからなかったのか、とうとう瑪瑙の手が回転を止め、眉も胡乱げに尖った。
ナギは両手を躰の前で重ねていった。
「僕は税抜きで九万九千八百円だったんです。だから、すごいなって」
誰かの喉がゴクリと鳴った。瑪瑙なのか慶隆なのか本人にも分からない。
ただ一つ、ナギでないことだけはたしかだった。
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