泡野瑪瑙

 朝――なのだろう。ふいにナギは瞼を開き、糸に吊られる人形のように上体を起こした。ベッドに寝乱れた様子はない。暗いままの部屋をぐるりと見回し息をつく。


「おはようございます」


 誰にいうでもなく呟き、ナギはベッドを下りてスリッポンに足を通した。パタパタと踵を落としながら洗面台の前に立ち、顔を洗う。個包装された歯ブラシを取り歯を磨き、トイレに寄ってから机に向かった。


 椅子を真っ直ぐに引き出して座ると、自動的に蛍光灯色の電灯が点いた。月刊アインシュタインを開く。壁に吸音加工が施されているのか、部屋に音らしい音は聞こえない。ナギは黙々と読み進め、ちょうど中間のページに至ると、見開きを押しつぶすようにして丁寧に開いた。


 ナギは雑誌の見開き中央の、紙片を留めるホチキスの針に爪を立てこじ開いた。裏側の記事を読んだのち紙を外し、次のページを読む。めくり、読み、紙を外す。同じ作業を繰り返し、縦二十八センチ、横四十二センチとなるやや細いA3ようの紙五枚を手に入れた。


 次にナギは紙の一番下の角に親指を寝かせて当てがい、約二cmを測って爪で線を引いた。軽く折り目をつけてから両端を揃え、一度目は谷折り、二度目は山折り――と蛇腹あるいは小さなハリセンを作るように折っていく。上端に達したら、横に二回と縦に十四回、横は二度重なるため都合四十八回折られた紙の棒ができあがる。


 ナギはできあがった棒を床に置いて足で押さえ次の紙を折りはじめた。できあがった紙の棒は横の折り目が互い違いになるように重ね、足で押さえる。四枚の紙を重ね終えたら、バラけてしまわないよう、片側の端が見えるように五枚目の紙で包む。


――そうして、長さ約十三センチ、直径約三センチの、紙の棍棒が完成した。


 一九七〇年代の暴徒化したサッカーファン――フーリガンが武器の持ち込みを禁止されたために新聞紙で作り出した、俗にミルウォール・ブリックと呼ばれる即席の武器を、より暗器に近づけた形だ。


 ナギは固く握り込んた紙の棍棒の端を机に強く擦りつけ、より固く、より滑らかに圧縮していく。月刊アインシュタインの記事はカラー写真が多く、その手のグラビアは染料や顔料と油脂類を溶かしたワニスを用いたインクによる凹版印刷となる。言い換えれば、月刊アインシュタインの記事に使われている紙は粘り強く、擦りつけて熱を加えることで強度も出せるのだ。


 目では誌面を追いつつ、ナギの手が棍棒を練り上げていく。そうして雑誌を読み終えると、ナギは月刊アトランティスの表紙を剥ぎだした。アインシュタインと違い糊付けで厚手のアート紙を使っている。その紙を、一つの角を頂点に三角形に折り重ねていく。いわばビニールコーティングされた紙の針だ。


 ナギはできあがった紙の針を先に作っておいた棍棒の片端に差し込み、余っている部分を棍棒を包む紙と一緒に巻きつけた。見た目には硬いグリップのついたアイスピックのようでもある。


 ナギは紙でできたそれを軋むほど固く握りしめ、絞り、また固く握り替えながら時間を過ごした。目は記事の文字列を追い、それも尽きると目を閉じて、ひたすらに固く握り込んでいった。


 そして、部屋の電灯が灯り、ナギは瞼を開いた。ノック。ドアが叩かれた。


「はい」


 ナギが顔を向けると、四角い覗き窓に不機嫌そうな慶隆の顔があった。低いブザー音とともに重々しい錠が外れる音がした。ナギは石のように固くなった紙のグリップを握りしめ、針を手首の裏に隠すようにして席を立った。扉が開く――、


「おはよう、ナギくん」


 ナギは目を瞬かせた。部屋に入ってきたのは慶隆ではなく、黒髪を肩の少し下あたりで切りそろえた女――少女、いや、女学生が近いか。白いコートに灰色のパンツスーツ。インナーは赤いニットだ。顔つきこそ幼いが、三センチほど上げたブーツの靴音はこなれていた。


「はじめまして。慶隆くんに代わってお姉さんが担当になりましたよ」


 そう告げる声はやや渇いている。

 後ろから不愉快そうな慶隆がついてきて、いった。


「こちら、泡野あわの瑪瑙めのう一等調査官だ」

「ちょっと、慶隆くん? お姉さん、自己紹介は自分でしたかったんだけど」

 

 そういって、瑪瑙と紹介された女は肩越しに慶隆に振り向いた。流れた横髪のあいだに右耳にかけられた白い器具が覗く。補聴器のようだ。

 ナギは瞬き、両手を後ろに組むようにして、ぺこりと頭を下げた。

 

「おはようございます。はじめまして、ナギです。名字は――」

「聞いてる。忘れちゃったんだって?」


 瑪瑙が柔らかに微笑み、いった。


「――それと、ありがとう」

「……はい?」


 急な礼の言葉に対し、ナギは小さく首を傾げた。

 瑪瑙は意味ありげな笑みを浮かべつつ両腕を組んだ。


「綺麗な人だなって思ってくれたでしょ?」

「誰がです?」

「ナギくんが」


 ナギはごく幽かに仰け反り、瞬きした。


「あとは――そう、これは補聴器ね」


 いって、瑪瑙は横髪をかき上げ、耳にかけたイヤホンのような機器を指さした。あらためて向き直り、ナギと視線を絡め合い、沈黙。慶隆がいぶかしげな顔で二人を見比べていると、


「……なるほど、たしかに厄介な子だね」


 瑪瑙は慶隆に苦笑いを投げていった。


「こりゃ慶隆くんだと分が悪いよ」

「あ? どういうことだよ」


 彼は不機嫌を隠そうともしない。

 瑪瑙はじっとナギを見つめてから、吹き出すように小さく笑った。


「すごい洞察力。もう気づいたの?」

「うわ」


 ナギが小さく口を開いた。


「ほんとに?」

「本当に」


 瑪瑙は妖しげにみながら、右耳にかけた機器を指で示した。


「私ね、これをかけてると、心の声も聞こえちゃうんだよね」


 瞬きを繰り返すナギをよそに、慶隆が小声で瑪瑙に尋ねた。


「――おい、先にバラしていいのかよ」

「うん。だって、ナギくん、お姉さんのこと試しにきてたし」

「嘘だろ――?」


 慶隆が信じられないと言わんばかりに顔を歪めた。

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