侵入者

 細く荒れた山道を駆け下りるナギの足は軽い。一度も使われることのなかった通信機器が使われたのもあるだろう、常の通勤よりもさらに早く、静かに、萌芽ほうがの門に辿り着いていた。


 音がない。いつもより僅かに乱れた息を整えながら、ナギは空を見上げた。青空に綿のような雲が散らばっている。すぐに左右に首を振った。目線は萌芽につながる道を辿っていく。表情は一段と乏しい。


 どこか遠くで、静寂に響く耳鳴りのような笛の音が鳴っている。


 ナギの眉間に細い皺が寄った。幾度も首を巡らせるが、指導員はおろか研修生の姿も見当たらない。ナギは下唇を巻き込むようにして湿らせ、本部の建物に駆け寄っていった。ガラス扉に半身を押し当てて開き、中へ。やはり人の気配はない。


 ナギは背筋を伸ばし、いつもよりいくらか早い足取りで階段へ向かう。音もなく階段を登りきり、ふと顔をしかめ、壁に手をつき、右足の靴底を見た。トレッドパターン――靴底の溝ははっきりと視認できる。いつもより幽かに硬い表情のまま床を強く蹴りつけた。


 音がしない。

 

 どこか、すぐ近くで、犬笛に似た笛の音が鳴った。


 ナギは固く目を閉じ、顔をしかめて、右のこめかみを掌底で二度叩いた。顔をあげて廊下を歩きだす。長い、長い廊下。蛍光灯の耐用年数が近いらしく薄暗い。ナギは横に首を振り、眉間の皺を深めた。


「……窓は?」


 研修生宿舎が見えるはずの窓がない。薄っすらと埃を混ぜたようなクリーム色の壁が続いている。廊下は延々と続いている。目測で最低二百メートル。


 本部施設に、そんなに広い空間はない。


 ナギは勢いよく振り向いた。廊下が伸びている。登ってきたはずの階段がない。


「……迷った?」


呟き、ナギは小首を傾げた。ありえない。物理的にありえない。初仕事の日に指導員のFに付き添われ利用する可能性がある全ての部屋を一通り回ったが、急ぎ足で五分もかからなかった。そもそも、建物の外観からして、端から端まで貫く廊下であっても三十メートルがいいところだろう。


「……ここ、どこ?」

 

 両手を腰に置き、ナギは息をついた。歩き出す。何事か呟いている。


「十五、十六、十七……」


 一歩ごとにカウントが増えていく。二十五歩に達したところで首を右に振った。壁があった。すぐ脇に扉をはめられそうな壁の切れ目があり、その奥は正方形の空間になっている。ナギはその場に靴底を滑らせて泥土で線を引き、部屋のようにも見える空間に首を入れた。


 何もなかった。机も、ホワイトボードも、指導員の詰め所を思いださせる、空っぽの空間が広がっている。天井に埋め込まれた蛍光灯は廊下と同じく薄暗い。ナギは鼻で息をつき、ぱっと振り向く。廊下に泥土で引かれた線が残っている。戻り、また数えながら歩きだした。


「三十八、三十九、四十」


 また首を振った。壁の切れ間。その奥に空間がある。ナギは鼻で息をついた。

 ふいに、廊下を風が吹き抜けた。音に反応してナギが顔をあげる。


 廊下に鼓膜を切り裂くような笛の音が迸り、ナギは両耳を塞いで屈み込んだ。あまりに強い音圧のせいだろうか、蛍光灯が明滅している。廊下の先――どこかの壁の切れ間から、廊下に影が伸びていた。


 ――人間、だろうか。


 もし人であれば、両手を横に広げ、その場でくるくる回っていることになる。足元は角度が悪く見通せない。ナギは片耳を押さえたまま、部屋らしき空間に半身を隠した。肩越しに蛍光灯を見上げて呟く。


「三千……三百……?」


 一般的な天井高は二千四百ミリから二千五百ミリだ。天井が高いといわれる建物で三千ミリ。いまナギがいる空間はそれよりもさらに高い。廊下の幅を同程度として影の長さから換算すると、


「千九百から……二千……」


 ナギは強張っていた肩を緩めた。途端、今度は銃声が廊下を抜けていった。ナギは壁に沿うようにして身を隠す。数発の連射。人の悲鳴がつづいた。銃声。乱射だ。破裂音に似た水音があり、銃声も悲鳴も止んだ。


「……なに?」


 ナギはするすると腰をかがめた。反響が激しく音の発生源は判然としないが、爆竹の類ではなく銃声だとはっきり認識できた。つまりライフル弾だ。それもフルオートに準ずる機構をもつ銃で放たれた。したがって、


「……警察じゃない?」


 ナギは両手をツナギの下で拭い、より深く躰を隠して床に耳をつける。ごく微かな振動は足音だ。少なくとも三人、四人――五人まである。近づいてきている。ナギは躰を起こし、音が聞こえてくる側の壁に移動した。


 少し離れたところから、粘着質な水音が聞こえた。布を引き裂くような音も。そして、なにか重たいものを放り投げた音も。


 足音が聞こえてくる。

 数の揃った足音が。

 ナギは壁に張りつき、息を潜めた。

 

 衣擦れと金属質な音が混ざり、近づいてくる。足音は一定の速度で滑り、すぐ傍まできた。ナギは息を止めた。過ぎ去ればよし――のはずが、足音は速度を緩めた。


「――助けて!」


 気づいた瞬間、ナギは叫んでいた。壁を挟んで足音の明らかな動揺を検知する。ナギは壁から飛び出すと同時に足音の発生源を視認した。全身を黒いタクティカルスーツで包んだ四人の小隊。黒い鉄帽に同色のガスマスクをつけていた。


「助けて! 助けてください!」


 いいつつ、ナギは銃口の延長線上を避けながらしゃがみ、両手を掲げた。顔を下げながらも視線は常に銃口を、その先にある引き金トリガーに沿わせた指を捉えている。


 小隊の面々が銃口をナギに向けつつ下がった。一人、二人と後ろを抜けて回り込んだ。ナギの視線が向けられた四つの銃口と指を警戒する。

 

「誰だ!」


 一番手前にいた人間がいった。声の高さからして若い男だ。


「どうして……ここにいる!?」

「――?」


 ナギが顔をあげた。眉間に皺が入っている。

 廊下に、鋭い金切り声が走った。男たちが身をよじり、銃口が下げられた瞬間、ナギは顔をしかめながらも突進タックルを仕掛けていた。

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