新しい朝が来た
畳の線と平行になるように置かれた枕元の時計が、午前四時五十五分を指した。ナギがパチリと瞼を開く。寝返りを打ったのか怪しくなるほど乱れのない掛け布団から手を引き抜いて、逆手で時計のアラームを止める。目覚ましは五時に設定されているが、その機能を果たしたのはこれまでに一度しかない。
ナギは機械仕掛けの人形のように上体を起こし、まだ焦点の定まらない
食卓に、一万円札が置かれていた。
ナギは紙幣を一瞥して冷蔵庫を開いた。スライスされたロースハムのパックが二つ減り、買い置きのレタスが一回り小さくなっていた。卵も減っている。ナギはドアポケットから牛乳のパックを抜いて、戸棚から出したプラスチックのコップに注いだ。
「二百二十の半分の、二百――五十八円で、二十二円として……」
半分ほど飲み、冷凍庫を開けた。六枚切りの食パンが四枚、減っていた。
「……百二十六、七――」
残っている二枚をオーブントースターに入れ、上段から無塩バターを取り出して薄く切って乗せ、キッチンの端に置かれた玉ねぎをやはり薄く切って乗せ、スライスハムを出しておき、タイマーを五分に合わせた。
ジリジリと加熱しながら時間を計る音を聞きつつ、ナギはシンクに目をやった。就寝前に掃除したのとほぼ同じ状態だった。帽子の男たちは食事をし、掃除をし、金を置いて帰ったのだろう。
「一万円から、引いて……」
ナギは呟きながらダイニングを出、トイレに寄って小用を足し、隠し扉を開いて階段を降りていった。部屋は、昨夜のできごとが夢であったかのように、ほぼ何も変わっていなかった。数少ない変化は、換気ダクトの周りが少し煤けているのと、床に細かな黒い炭が僅かに散らばり、引きずったような跡が増えていたことだけだった。電気を消して階上に戻る途中、オーブントースターがベルを鳴らした。
「クイカイマニマニマニマニダスキー、クイカイコー、クイカイコー」
昨夜、銀マッチの男が囁いていた歌を口遊みながらダイニングに戻り、トーストにハムを乗せて朝食を組み立てた。
一万円から諸々の諸経費を引き、九千と八百円以上の利益がでている。テーブルに置かれたままになっている雑誌代を含めればさらに伸びるだろう。
「ふふっ」
と、微笑みながら、ナギはトーストを二つに折って、月刊アトランティスを読みながら口に運んだ。カリカリに焼かれた小麦の味が舌に触れ、バターの香りが鼻腔を抜ける。表面を炙られた玉ねぎが甘味と辛味を添えて、牛乳が後味を洗い流す。
「ごちそうさまでした」
両手を合わせて、ナギはいう。意味は知らない。教育用のビデオ――動画で、そうするのが自然なのだと学んだだけだ。皿をシンクに置いて、階上に戻り、服を着替え始めた。
下はややゆったりとした深緑のカーゴパンツで、上は白いTシャツにフードつきのウィンドブレイカー。靴下は青いアンクルソックス。
そして、ピンクパール色をしたPHSを手に取る。いわゆるガラパゴス携帯に似た細長い電話の形をしている。すでにサービスの提供は終了しているとされているが、しかし、帽子の男に緊急連絡用として携帯するよう申し付けられている通信機器だ。
ナギは千百八十円のランニングバッグにPHSを入れ、ふと天井を見上げ、ダイニングに戻った。二冊の雑誌を丸めて、腹側に回したバッグに詰める。また背中側に戻して玄関に。
靴箱を開け、
「行ってきます」
答えてくれる人間はいない。
家を出て、鍵を掛け、軒下に立てかけられた籠付きの
「……さあ、行こうか」
背中側に昇りはじめた太陽に呟き、ナギは深く息を吸って走り出す。
新しい職場までの五キロ強を、彼は十四分で走ろうとしている。昨日までの最速は十四分と四十秒。二度と遅くなったことはない。
「税抜き、九万、九千、八百円……!」
吐息に混じり、音をたしかめるような声がする。
耳にする者はいない。
荒い呼吸に比して、汗は少ない。白く色づく息も二十と
鉄柵状の門扉の手前、壁にかけられた真新しい木製の看板に、
『
とある。ナギの現在の職場だ。
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