おやすみなさい

 ナギはバットを下ろし、男を見やった。胸の上下は止まり、首が伸び、奇妙な角度に曲がっていた。バットの先で少し押して正しい角度に戻した。


「あんま、いじんなよ」


 銀マッチの男が顔をしかめ、息絶えた父親の前にしゃがんだ。

 ナギは帽子の男から寝間着を受け取って腕を通し、バットを元の位置に立てかけると、ボタンを留めながら尋ねた。


「死体はどうするんですか? 商品になります?」

先刻さっきいったとおりだ。ならない。客が見つかる前に腐るだろうし、冷凍保存には適していない」


 帽子の男は銀マッチの男の背中をしばし見つめ、いった。


「体液でトランクを汚されたくない。ここで焼いてしまおう」

「――俺もそう思ってたとこです」


 銀マッチの男は咥えていた銀色の棒――銀のマッチ棒を左手に取り、頭薬に相当する丸い突起を父親の太ももに押しつけた。


「クゥイカイマニマニマニマニダスキー、クゥイカイコー、クゥイカイコー……」


 囁くように口遊くちずさみながら、銀マッチの男は指先を弾くようにして銀マッチをった。途端に遺体の左肩が燃え上がった。発火点は透明で、次第に青く、赤く色づいていく炎が、遺体を舐めるように広がった。


 銀マッチを擦りつけた構造物は、そのどこかで燃え上がる。どこで燃え始めるかは選べないが、首をもたげる火柱は容易には消せず、人の躰であれば脂肪を燃焼促進剤に完全に炭化するまで焼き尽くす。


 火炎により乾燥しきった父親の肌が引きつり裂けて、高熱に炙られ溶け落ちた。腐りかけの内臓が甘ったるい臭気を撒きながら燃え、腸につまった糞便が悪臭を放つ。


「クゥイカイマニマニマニマニダスキー、クゥイカイコー、クゥイカイコー……」


 銀マッチの男が立ち上がり、ゆっくりと火から離れる。すると、帽子の男が無感情にふしをつけ歌に加わった。


「オニクォディーモー、オチャリアリウンパー、オニクォディーモー……」


 焚き火を囲んでいるかのような二人の背中に、ナギは幽かに首を傾げ、入り口脇のスイッチを押した。ゴン、と一つ鈍い音を鳴らし、壁の上部に設けられた格子状の換気ダクトが黒煙を吸いはじめた。地下室から吸い出されたものがどこに消えるのかは誰も知らない。

 

「――どれくらいかかる?」


 歌を中断し、帽子の男が銀マッチの男に尋ねた。


「長く見積もって三十分くらいですかね」

「見ていても仕方ない。上で待とう」

「なんか、この臭いを嗅いでたら腹が減ってきましたよ」


 二人のやりとりに、ナギは肩を落とし気味に息をついた。


「冷蔵庫にハムとソーセージ、冷凍庫に食パンが入ってます。香辛料はドアポケットに戻しておいてくださいね」

「悪いな、助かる」


 銀マッチの男に頷き返し、次にナギは帽子の男に目を向けた。


「上に戻るとき、スリッパの裏を拭くのを忘れないでくださいね?」

「……スリッパの裏?」

「煙草、踏み潰しましたよね?」


 帽子の男は足元を見て、顔を戻し、頷いた。


「わかった。気をつける」

「それじゃあ――」


 ナギは階段の前で振り向いて、ぺこりと頭を下げた。


「おやすみなさい」

「ああ。おやすみ、ナギ」


 帽子の男と銀マッチの男の声が揃った。二人の背後で火柱がさらに背丈を伸ばしていた。部屋に籠もる大気を餌に、踊るように揺らめいていた。


 ナギが隠し部屋からトイレに、そして廊下に出ると、顔に傷のある男が巨躯を丸めて床に雑巾をかけていた。


「どうしたんです?」


 尋ねると、顔に傷のある男は苦しげに息をつきながらいった。


「あのバカ野郎、靴のまま上がっといてそのままだ。ふざけやがって」

「近いうちに死んじゃうと思います」


 顔に傷のある男が鼻を鳴らした。


「だろうな。いままで生きてたのが奇跡みたいなもんだ」

「えっと、お掃除、ありがとうございます」

「いいんだ。面倒かけたのはこっちだからな」


 顔に傷のある男が躰を起こし、腰をさすりながらいった。


「俺が運んできたやつはどうなった?」

「下で燃えてます。もう死んじゃいましたけど」

「なら、しばらく待ちか」

 

 疲れたようなため息をつき、続けた。


「ナギはもう寝るのか?」

「はい。そうしようと思います。もう遅いですし、新しい仕事、けっこう朝が早いんです。いつも走っていくので、もう寝ないと」

「そうか。おやすみ、ナギ」

「おやすみなさい」


 ナギは頭を下げ、ペタシペタシとスリッパを鳴らしながら廊下を進んだ。その背中に、暗闇から声が投げられた。


「次に来るときはポテトサラダも買ってくる」


 ナギはピタリと足を止め、振り向いた。


「いえ。大丈夫です。お店によって味が全然ちがうんです。美味しくないのは本当に美味しくなくて」

「そうか」

「それより、そのうち車の運転を教えてもらうかもしれません」


 暗闇の奥で、笑うような気配があった。


「わかった。おやすみ」

「おやすみなさい」


 答え、ナギは寝室に戻った。襖を閉めて、一度、明かりをつけ、時計を見る。十一時を回ろうとしていた。布団の上に膝を揃えて座り、両目を閉じた。呼吸が深く、長くなっていく。


 瞼を開いたナギは目の焦点を散らしたまま明かりを落とした。横になり、掛け布団を躰にかけて、深い吐息とともに呟く。


「明日も、いい日になりますように」


 瞼を落とし、一秒とかけずに静かな寝息を立て始めた。

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