急な仕事
階段室を通じて言い争うような声が聞こえてくる。顔に傷のある男と銀マッチの男の声と、もう一つ――荒く固い靴音が階段室に入ってくると、すぐに陶器の割れるような音が続き、転がり落ちてきた灰色のスーツの男が踊り場の壁にぶつかった。
「靴、履いたまま来ちゃったんですね」
ナギが黒人の男を見上げていった。男は汗の浮いた額に深い皺を刻み、英語のスラングを交えてなにかいった。ナギが小さく首を傾げると、黒人の男は舌打ちし、さらになにか重ねようとした。しかし、帽子の男に目を向けられて口を噤んだ。
「――言葉遣いに気をつけろ」
帽子の男が日本語でいった。
「お前と我々は
黒人の男が口を開きかけると、帽子の男は言葉を待たずに続けた。
「日本語で話せ。ここは日本で、この家は日本にあり、家主は日本語を喋る」
黒人の男は苦い顔をして顎を引いた。
「私は、日本語が――下手で」
「下手なのは仕方ない。守る努力をしろ。それを敬意という」
「……わかりました……ボス」
「閥が違うといっただろう。先生、マスター、
「イエス――マスター」
帽子の男が長い吐息をついた。
「くだらんミスが幸運を呼んだな。ここに来るのを許されたのは、お前で八人目だ」
「まだ生きてるのはあなたを入れて四人ですよ」
そうナギがつけ加えると、帽子の男が唇を歪めた。
「自分も入れろ、ナギ」
「じゃあ、五人です」
黒人の男は喉を鳴らした。紫のネクタイに指を掛け首を捻った。筋が浮いた。
「お前の考えを聞こう」
帽子の男に尋ねられ、黒人の男は言葉を選ぶように時間をかけて答えた。
「父親はもう使えないです。戻してもまた逃げる。娘には顔を見られて――」
「お前が
「……ハイ」
酷くいいにくそうな発音だった。
帽子の男の無機質な瞳が少女に向けられていた。
「なら、どうする」
「娘は……アー……我々の……アー……アプレンティスに」
「見習いだ」
帽子の男がいった。
「アプレンティス。日本語でいうと見習いです」
黒人の男はなにか言いたげに口を開いたが、しかし、帽子の男を見やり俯きがちに下唇を湿らせただけだった。
「父親はどうする?」
帽子の男が尋ねると、黒人の男は弾かれたように顔をあげ声を張った。
「私が責任をもって――」
「お前に責任はない」
いい切らないうちに返され、黒人の男が押し黙った。
「こいつは俺の責任で処理する。奴にそう伝えろ。お前は、その娘を担いでこの家を出て、この経験を生かす努力をしろ」
キリ、と黒人の男の口内で歯が軋む音がした。彼は娘の前に
「黙れ」
帽子の男がいった。部屋に静寂が戻った。階段の入り口を塞いでいた銀マッチの男が道を開ける。遠ざかろうとする足音に彼はいった。
「靴は脱げ」
黒人の男は従わなかった。階段の奥へと消えていく。漏れ聞こえてくる悪態に、ナギは鼻で息をついた。
「一度もお礼をいいませんでしたね」
「ああ。そう遠くないうちに死ぬだろうな」
帽子の男が呟いた。銀マッチの男が吹き出すように肩を揺らす。
「――で、どうします?」
帽子の男は取り残された父親を見下ろしたまま答えた。
「調査は終わったのか?」
「いまやらせてますが、日を跨ぎそうです」
「急な仕事だ、無理はいえない。こいつはここで処理しよう」
「え?」
ナギは目を瞬かせた。
「売らないんですか?」
「売れねえよ」
銀マッチの男が苦笑交じりに答えた。
「見習い仕事でだいぶ内蔵がやられてるらしい。頭もな。そのうえトシも。全身バラしてやっと十万だろうが――受け取るときには息をしてねえ」
銀のマッチが男の唇の端から端へと動いた。帽子の男が言葉を継ぐ。
「しかも、そんな自分の命と引き換えに娘を売った――いや、見捨てた、か?」
「そういう話だったんですね」
ナギの眉根が幽かに上がっていた。
「……ナギ、頼む。痛めつける価値はないし、銃を持ってきていない」
「僕もう着替えちゃったんですけど」
「預かるさ」
「じゃあ、お願いします」
いって、寝間着のボタンを外しながら、ナギはツールボックスに歩み寄る。目が電動の糸鋸を捉え、
ナギはバットを手に取り寝間着を脱いだ。ボクサーや兵士などの、無駄を極限まで削ぎ落としたような躰だった。
寝間着を帽子の男に預け、跪く父親の右腕側やや前に立った。バットの先がリノリウムの床に触れて鳴った。父親が黒い布袋に覆われた顔を上げる。ナギはスリッパから足を抜き、ティーバッティングでも始めるかのようにスタンスを取った。ぎゅ、と足裏が鳴った。
ナギの幼さの垣間見えるつぶらな瞳が黒い布袋を見据える。バットを深く、大きく引き絞り、囁くようにいった。
「――ひどいやつだ」
ナギはバットを振り抜いた。長尺バットのスイートスポットが男の前頭を完璧に捉え、頭蓋骨を砕き脛椎を
男は背中から激しく床に叩きつけられ、床の反発と収縮した大腿筋によって、まるで起き上がりこぼしのように頭を三十センチ近く弾ませて、やがて重力に従った。
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