急な仕事

 階段室を通じて言い争うような声が聞こえてくる。顔に傷のある男と銀マッチの男の声と、もう一つ――荒く固い靴音が階段室に入ってくると、すぐに陶器の割れるような音が続き、転がり落ちてきた灰色のスーツの男が踊り場の壁にぶつかった。


 帽子の男ハットマンよりも背の高い――百九十の後半はありそうな、髭を蓄えた黒人だ。革靴を履いていた。転んだ際についたのか爪先に傷が入っていた。


「靴、履いたまま来ちゃったんですね」


 ナギが黒人の男を見上げていった。男は汗の浮いた額に深い皺を刻み、英語のスラングを交えてなにかいった。ナギが小さく首を傾げると、黒人の男は舌打ちし、さらになにか重ねようとした。しかし、帽子の男に目を向けられて口を噤んだ。


「――言葉遣いに気をつけろ」


 帽子の男が日本語でいった。


「お前と我々はばつが違う。そしてナギはお前より長い。つまり、ナギのほうが格上だ。この家はナギに任せてある。家主には敬意を払い、ハウスルールを守れ」


 黒人の男が口を開きかけると、帽子の男は言葉を待たずに続けた。


「日本語で話せ。ここは日本で、この家は日本にあり、家主は日本語を喋る」


 黒人の男は苦い顔をして顎を引いた。


「私は、日本語が――下手で」

「下手なのは仕方ない。守る努力をしろ。それを敬意という」

「……わかりました……ボス」

「閥が違うといっただろう。先生、マスター、師叔スースゥ帽子の男ハットマンでも構わないが、俺はお前のボスじゃない」

「イエス――マスター」


 帽子の男が長い吐息をついた。


「くだらんミスが幸運を呼んだな。ここに来るのを許されたのは、お前で八人目だ」

「まだ生きてるのはあなたを入れて四人ですよ」


 そうナギがつけ加えると、帽子の男が唇を歪めた。


「自分も入れろ、ナギ」

「じゃあ、五人です」


 黒人の男は喉を鳴らした。紫のネクタイに指を掛け首を捻った。筋が浮いた。


「お前の考えを聞こう」


 帽子の男に尋ねられ、黒人の男は言葉を選ぶように時間をかけて答えた。


「父親はもう使えないです。戻してもまた逃げる。娘には顔を見られて――」

「お前がさらったからだ」

「……ハイ」


 酷くいいにくそうな発音だった。

 帽子の男の無機質な瞳が少女に向けられていた。


「なら、どうする」

「娘は……アー……我々の……アー……アプレンティスに」

「見習いだ」


 帽子の男がいった。

 いぶかしげに眉を寄せる黒人の男を見て、ナギが付け加える。


「アプレンティス。日本語でいうと見習いです」


 黒人の男はなにか言いたげに口を開いたが、しかし、帽子の男を見やり俯きがちに下唇を湿らせただけだった。


「父親はどうする?」


 帽子の男が尋ねると、黒人の男は弾かれたように顔をあげ声を張った。


「私が責任をもって――」

「お前に責任はない」


 いい切らないうちに返され、黒人の男が押し黙った。


「こいつは俺の責任で処理する。にそう伝えろ。お前は、その娘を担いでこの家を出て、この経験を生かす努力をしろ」


 キリ、と黒人の男の口内で歯が軋む音がした。彼は娘の前にかがみ、一息に担ぎ上げた。少女が声にならない声を出し、すぐそばで父親が何かを叫ぶ。


「黙れ」


 帽子の男がいった。部屋に静寂が戻った。階段の入り口を塞いでいた銀マッチの男が道を開ける。遠ざかろうとする足音に彼はいった。


「靴は脱げ」


 黒人の男は従わなかった。階段の奥へと消えていく。漏れ聞こえてくる悪態に、ナギは鼻で息をついた。


「一度もお礼をいいませんでしたね」

「ああ。そう遠くないうちに死ぬだろうな」


 帽子の男が呟いた。銀マッチの男が吹き出すように肩を揺らす。


「――で、どうします?」


 帽子の男は取り残された父親を見下ろしたまま答えた。


「調査は終わったのか?」

「いまやらせてますが、日を跨ぎそうです」

「急な仕事だ、無理はいえない。こいつはここで処理しよう」

「え?」


 ナギは目を瞬かせた。


「売らないんですか?」

「売れねえよ」

 

 銀マッチの男が苦笑交じりに答えた。


「見習い仕事でだいぶ内蔵がやられてるらしい。頭もな。そのうえトシも。全身バラしてやっと十万だろうが――受け取るときには息をしてねえ」


 銀のマッチが男の唇の端から端へと動いた。帽子の男が言葉を継ぐ。


「しかも、そんな自分の命と引き換えに娘を売った――いや、見捨てた、か?」

「そういう話だったんですね」


 ナギの眉根が幽かに上がっていた。


「……ナギ、頼む。痛めつける価値はないし、銃を持ってきていない」

「僕もう着替えちゃったんですけど」

「預かるさ」

「じゃあ、お願いします」


 いって、寝間着のボタンを外しながら、ナギはツールボックスに歩み寄る。目が電動の糸鋸を捉え、抽斗ひきだしに下り、横に滑る。黒い金属バットが立てかけられていた。一般的なものよりも長い。Z社の三十六インチ。グリップにはテニスラケット用のグリップテープが巻かれている。


 ナギはバットを手に取り寝間着を脱いだ。ボクサーや兵士などの、無駄を極限まで削ぎ落としたような躰だった。


 寝間着を帽子の男に預け、跪く父親の右腕側やや前に立った。バットの先がリノリウムの床に触れて鳴った。父親が黒い布袋に覆われた顔を上げる。ナギはスリッパから足を抜き、ティーバッティングでも始めるかのようにスタンスを取った。ぎゅ、と足裏が鳴った。


 ナギの幼さの垣間見えるつぶらな瞳が黒い布袋を見据える。バットを深く、大きく引き絞り、囁くようにいった。


「――ひどいやつだ」


 ナギはバットを振り抜いた。長尺バットのスイートスポットが男の前頭を完璧に捉え、頭蓋骨を砕き脛椎をひしゃげながら、男の躰を打ち倒した。


 男は背中から激しく床に叩きつけられ、床の反発と収縮した大腿筋によって、まるで起き上がりこぼしのように頭を三十センチ近く弾ませて、やがて重力に従った。

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