質問

 地下ゆえに肌寒いのか、それとも恐怖か、ナギの遠くの空を眺めるような視線の先で、少女はかすかに震えていた。


「この子たちはどうしたんですか?」

「逃げたのはそっち――父親のほうだ。つまり、逃げられたというほうが正しい。そこまではまあ、仕方しかたない。誰にでもミスはある。新人なら特に」

「僕もいっぱい失敗しました」

「だが、同じミスはなかった」

「――じゃあ」

「そうだ。若いのは二回も逃げられた。それもまあ、仕方ない。よくあることだ。だが、あいつらはもう逃げられないように、そっちの女の子を人質にした」


 ナギは目を瞬かせながら帽子の男を見上げ、また少女に戻した。


「関係ないのに、かわいそうですね」

「逃げた奴の娘ではあった」


 帽子の男ハットマンはトレンチコートのポケットから黒革の筒型シガレットケースを出した。ケースはナギが仕事場から持ち帰り贈呈したもので、使い始めて三年ほど経っていた。


 銀マッチの男が壁を離れ、帽子の男が唇に煙草を挟むあいだにライターを灯して差し出した。

 

「本当にかわいそうなのは、その先なんだよ」


 銀マッチの男が壁際に戻りながらいった。を、帽子の男が継ぐ。


「その子は人質にもなれなかった」


 吐き出された煙が父娘おやこを薄っすらと包む。ナギは膝に手をついて立ち上がり、帽子の男に尋ねた。


「あの、すこし話してみてもいいですか?」

「日本人じゃないし、どっちも日本語はほとんど喋れないぞ?」

「試してみます。いまの仕事で使えるかもしれないので、ちょっと勉強してて」


 いって、ナギは銀マッチの男のそばのツールボックスに歩み寄る。キャスター付きの六段組になっており、一番上に一冊のB5ノートとボールペン、金属用のブレードを取りつけた青い電動糸鋸ジグソウが置かれている。ナギはノートとペンを手に取り、開きながら、跪く男の前にしゃがんだ。


「えっと……」

 

 ナギの目がノートに書かれた文字列を追っていく。ページのはじまりに『挨拶』と書かれており、カタカナ、国際音声記号IPA、ひらがなの和訳、言語名の順に並んでいる。


「チャオブォイサーン?」


 ナギの問いかけるような声に、男は反応しなかった。


「違った」


 いって、目線が次の段に下りる。


「ザオシャンハオ」


 男は反応せず、ナギの目線が動く。


「マガンダン、ウマガー」


 男は小刻みに震えているだけだ。蛍光灯がカチカチと明滅し、男が被る黒い布袋の奥で歯が似たような音を立てていた。


「新しい仕事はどうだ?」


 帽子の男が煙草の灰を足元に落とした。ナギは振り向き、灰、帽子の男の順に視線を滑らせてから答えた。


「いつもの仕事のほうが好きかもです。いろんなところに行けるし、いろんな家に入れるし、いろんな物が見れますから」

「まだ慣れないか」

「そういうんじゃない――と、思います」

「職場に不満があるのか」

「そっちのほうが近いかもしれません」


 ナギはノートに目を戻したが、帽子の男が構う様子もなく尋ねた。


「なにか気になるところがあるのか?」

「どうでしょう? ――みなさん親切にしてくれるんですけど、何人か……一緒に指導員をしてる人は、なんだか嫌な感じがします」


 帽子の男が背後に首を振り向け、銀マッチの男に目配せした。彼はすぐに壁を離れると、スマートフォンを耳に押し当てながら階段を上っていった。


「スラマッパギー?」


 ナギが新たな文字列を読み上げると、びくん、と男と、少女が、背筋を跳ねた。

 

「インドネシアだ」


 頷きを繰り返しながら誰にいうでもなく呟き、ノートをめくり、左上に『質問』と書かれたページを開いた。同じように並ぶ明朝体に近い几帳面な文字列から一つを選んで読み上げる。


「アパカーアンダ、イングゥイン、ヒドゥープ、レビー、ラマ?」


 読み終えるかどうか、男がくぐもった悲鳴を上げた。全身を震わせながらなにかを叫ぼうとしている。その声に打たれたのか、隣で少女も高い声をあげた。

 

 しかし、口に何かを詰められているようで、声は言語としての意味をなさない。


「――ナギ。なにを言ったんだ?」

「『長生きしたいですか?』って聞きました」

「この状況でそんなことを聞いたら怯えるだろう」


 ナギは帽子の男を見上げ、首を傾げた。


「そうですか?」

「そうなってる」


 帽子の男は呆れたように顎をしゃくった。父娘は繰り返し、繰り返し、躰を折るようにして叫んでいた。


「ですね。――どうしましょう。『静かにして』って、まだ調べてないんです」


 ナギはノートを閉じた。低い振動音が聞こえる。帽子の男が消えかけた煙草を床に落とし、つま先でこじりながら、スマートフォンを出した。画面に指を向け、必死になにかを訴えようとする父娘を一瞥し、歩み寄り、おもむろに父親の黒頭巾を掴んで上向かせる。


「黙れ」


 底冷えのする声だった。父親はガクガクと首を動かし、なにかを吠えた。


「黙れ」


 帽子の男の低く重たい声音に、父娘は沈黙した。荒い鼻息と蛍光灯の明滅する音だけが残り、二つの黒い頭巾が呼吸に合わせて膨らみ、またしぼんだ。

 

「伝える気さえあれば、言葉がわからなくても伝わるもんだ」

「――長生きしたいですか?」


 ナギが父娘に尋ねると、帽子の男は唇の端を吊った。


「やめておけ」


 いって、耳に電話を押しつけた。


「――どうした? 道に迷ったか? ――そうだ。ヘッドライトを消して街灯だけを追いかけろ。――そうだ。道は無視しろ。ガードレールも、崖も。いずれポーチライトが見える――そう。十九世紀のガス燈に似ている。手前が暗いからへいにぶつけないよう気をつけろ。鍵は開けてある」


 通話を終え、帽子の男はスマートフォンをコートのポケットにしまい、代りに煙草を出して唇に挟んだ。火を灯し、煙をくゆらせて、しばらく――、


 階上、玄関の方からけたたましい擦過音が聞こえ、帽子の男が舌打ちした。

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