夜、寝る前に。

 ナギは掛け布団の上に正座して、枕元に置いておいた自動車教習所のパンフレットを手に取った。目線が数字を追っていく。AT限定で二十八万円。普通車MTで三十万円。


「すごい。僕の三倍だ」


 つぶらな瞳をさらに丸くして息をつく。ぺらりとめくり、また数字を追う。普通二輪のMTで二十万円。ATで十八万円。


「僕の二倍……」


 ナギはパンフレットを閉じて枕元に戻した。正座の姿勢に直り虚空を見つめることしばし、ふと首を振り、パンフレットの位置と角度を半センチ修正する。また宙を見つめ、枕元の時計を見やる。十時と二十七分。


「どうしようかな」


 誰にいうでもなくつぶやき、ぐらりと躰を揺らして立ち上がった。天井からぶら下がる電灯の紐を引き常夜灯に切り替え、スリッパに足を通して階段を降りていく。ダイニングから漏れる明かりに首を傾げて顔を見せ、


「あ」


 と声を漏らした。

 顔に傷のある男が、大きな躰を丸めてダイニングテーブルにつき、パックの惣菜をフォークでほじっていた。ポテトサラダだ。走って二十分ほどの距離にある最も近いスーパーで二百円の十パーセントオフ。見切り品だった。


「それ、僕の朝ごはんだったんですけど」


 ナギが言うと、顔に傷のある男はぼんやりと顔をあげ、思い出したように言った。


「すまん。腹が減ってたんだ。少し残しておく」

「いえ、開けちゃったんなら食べちゃっていいです」

「……すまん」


 顔に傷のある男は申し訳無さそうにさらに躰を縮め、そうだ、と大柄で薄い紙袋をテーブルに置いた。


「代りじゃないが、見かけたから買ってきた」


 紙袋の音に反応したのか、ナギの細められかけていた目が大きく開いた。いそいそと袋を開き中身をテーブルに滑り出す。雑誌が二冊。一つはオカルト専門雑誌の『月刊アトランティス』で、もう一つは科学専門の『アインシュタイン』だ。ナギはで立ち寄った家で読んだときから、彼らに購入代行を頼んでいる。


「いつもありがとうございます」

 

 声は明るく、雑誌を机の角に揃えて並べなおす手も軽やかになっている。

 顔に傷のある男はフォークを親指の代りに背後を指差す。


にも礼を言っときな。思い出したのはあっちが先だ」

「はい。ちょっと見に行こうと思ってたので、ちょうど良かったです」


 ナギはぺこりと頭を下げてダイニングを出る――間際に首を振り向けた。


「僕が自動車免許取りたいっていったら、どう思います?」

「――免許?」


 顔に傷のある男はほとんど空になった惣菜のパックをフォークで丹念に擦って口に運んでいた。一瞬、視線を外しながらフォークを口から引き抜き答えた。


「なにに使うのか知らんが、身分証がいるなら俺なんかじゃなくて、帽子の男ハットマンに聞いたほうがいい」

「そうじゃなくて、運転できたほうがお得かなって思うんです」


 躰ごと振り向いたナギの目は、惣菜パックの蓋に貼られた十パーセントオフの割引シールを見つめていた。顔に傷のある男が彼の視線を追って、また顔を戻す。


「練習だけならこの家の前の道でできる。ナギなら十五分もあれば覚えられる――けど、それも帽子の男に相談だ」

「わかりました。聞いてみます」


 また頭を下げて、今度こそナギはダイニングを出た。

 顔に傷のある男は空にした惣菜パックの蓋を閉め、割引シールを眺め呟いた。


「今日の帽子の男はあんまり機嫌が良くない――けど、お前なら大丈夫だろ」


 暗い廊下の床板がナギのスリッパの下で小さく軋んだ。他に音はない。虫の声も、風の音も、家電類が発する低周波音すら聞こえない。完全に世界から切り離されている。


 ナギは廊下を曲がり、浴室の隣、トイレに入ってタオルホルダーに手をかけ押し下げた。コン、と小さな打音とともに壁に切れ目が浮き上がり、扉として開いた。がけのように急なタイル張りの階段が続き、踊り場がさらに下から伸びる白い灯りで照らしだされている。明かりは時折、明滅していた。


 ナギは壁に手をついて上から三段目の割れたタイルを飛ばし、下へと向かう。古病院の六人部屋を思わせる部屋で、両手をポケットに入れた帽子の男が、跪く二人の人間を見下ろしていた。銀マッチの男は腕組みをして部屋の入口の壁にもたれている。


 ふと、帽子の男が振り向いた。


「見に来たのか」

「はい。聞きたいこともあったので」

「そうか」


 帽子の男は二人の人間に向き直った。二人とも下着一枚で、頭は黒い布袋で覆われていた。


「――聞きたいこと?」


 帽子の男が聞き返した。

 ナギはすぐ横に立ち、同じように人間たちを見下ろす。


「僕が、運転免許証が欲しいっていったら、どう思いますか?」

「三日ほどかかる。日本の免許証は手が込んでるからな」

「そうじゃなくて――」


 いいかけると、壁にもたれていた銀マッチの男が腕組みを解き、親指で階上を指し示した。


「運転の仕方が習いたいならあいつに頼みな。あいつは上手い」

「あ。雑誌。ありがとうございました」


 ナギが銀マッチの男に頭を下げると、彼は腕組みをし直し手先を払った。

 帽子の男が底冷えのする声でいった。


「今日は遅いから無理だ。こいつらのせい――いや、若い奴のせいで予定が詰まってしまった」

「そうですか」


 答え、ナギは人間たちを見下ろす。痩せてはいるが腹だけ少し出ている中年の男と、あばらが浮いた少女。少女の歳は、骨格と胸の膨らみから、最小で十、最大で十五くらいだろう。


「……教習所に通いたいのか?」


 思いついたように帽子の男が尋ねた。


「どうなんでしょう? 違うかも。もしくはそうでもないかもしれません」


 ナギはその場にしゃがみ込み、かすかに首を傾げた。

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