ナギという少年

109,780円の少年

 霞がかった月の下、黒々とした木々に覆われた山のふもとにひっそりと佇む木造二階建ての質素な民家の窓から、曇りガラスと薄手のカーテン越しに淡い明かりが漏れている。

 

 キッチン――というより、台所というのが似合いな設備とセットになった、こじんまりとしたダイニングルームの壁の時計が、十時と十七分を指そうとしていた。


 簡単な夕飯を食べ終えたナギは、歯を磨き、温かな風呂に入り、寝間着に着替えたところだった。学習用のテレビとデッキはあるが特に見たいものはなく、ノートパソコンはインターネットには繋がっていない。

 

 ナギは青いスリッパを鳴らしながら一階の各部屋を覗き、電気が点いていたら消し、暗闇に呑まれていれば頷き、最後にダイニングルームに戻ってきた。


 冷蔵庫を開いてふんふんと頷き、四人座るのがやっとのダイニングテーブル――古めかしい花柄のテーブルクロスがかけられている――に置いておいた読みさしの文庫本を手にとる。時計を見上げ、鼻で小さく息をつき、電灯のスイッチに手を伸ばしかけ、ふいに玄関のほうに振り向いた。簡素で無機質な呼び鈴が鳴った。


「はーい、いま出ますー」


 まだ少年らしさの残る声で彼は応じた。玄関の明かりを点けると、扉脇の磨りガラス越しに、なにかを担いだ大柄な人影がある。人影はナギに気づいたのか小さく手を上げ、試すように軽くガラスを叩いた。


「はい、はい。いま開けますね」


 いいつつ、ナギは靴箱の上の、五輪の雛罌粟ひなげしを生けた花瓶の裏から、ダイビングナイフを取った。黒いプラスチックの鞘から抜き放ち、右の手首の裏に隠し持つようにして、玄関扉の鍵を解き真鍮色のまるいドアノブに指をかける。一つ深呼吸して、開けた。


「――ひさしぶりだな、ナギ」


 帽子の男ハットマンがいた。いつも通りの灰色のハットに、灰色のトレンチコート姿だった。


「また少し大きくなったか?」

「二ヶ月ぶりくらいですから、大きくなってても二ミリか三ミリくらいだと思いますよ。もうちょっとで百七十五センチです」

「あまりデカくなると寝巻きが似合わなくなるぞ」

「そんなことないです。この前のおうちに大きくても可愛いのがありましたし」


 ナギは微笑み返しながらナイフを指先に持ち換え、帽子の男を家へと誘う。


「連絡くれれば良かったのに。もう寝るところでした」

「急な話だったんでな。最近の若いのは注意力が散漫で困る。みんなナギくらい仕事が丁寧だったらとよく思う」


 いって、帽子の男は肩越しに振り向き暗がりに手招いた。長細い銀のマッチを唇の端に噛み込んだ男が出てきた。絨毯のように丸めた白いシーツの塊を担いでいる。正面側の端から小さな――小麦色の肌に生白い足裏の――つま先がはみでていた。


「おひさしぶりです。女の子ですか?」


 ナギがそう問いかけると、銀マッチの男は舌と唇を器用に使いマッチを反対の端に咥え変えた。歯で噛み込んでいるために笑っているようにも見える。


「ナギ、お前、もうクマさんのパジャマってトシじゃねえだろ」

「いいじゃないですか、クマさん。可愛くて」

「猛獣だよ、猛獣」


 またマッチを噛み変えて言った。


「下の部屋、借りるぞ」

「はい。――あ。上から三段目のタイルが割れてるので、気をつけてくださいね」


 銀マッチの男は無言のまま家に上がり込み、肩越しに手だけを振った。


「おい」


 背に投げられた野太い声に、ナギが振り向く。


「ちょっと邪魔だ」


 帽子の男よりもさらに長身で横幅もある、顔に大きな切り傷のある男がぬっと姿を現した。肩には同じくシーツの塊。大きさからして包まれているのは成人の男性だ。

 

「すいません」

 

 ナギは扉を押さえつつ道を開けた。顔に傷のある男は体格相応の重い足音を立てながら上がりかまちに足をかけ、肩越しにぎこちない笑みを見せた。


「パジャマ、まだ似合ってるぞ」

「ありがとうございます」

「――でも、上はズボンに入れないほうがいい。さすがに」

「お腹が冷えちゃうじゃないですか」

 

 顔に傷のある男は聞いているのかいないのか、今度は振り向かず奥へと進んだ。ナギは上がり框に置かれたスリッパを一瞥し、吐息混じりに帽子の男を見上げる。


「なんで皆さんスリッパを使ってくれないんでしょう?」

「靴を脱ぐので精一杯なんだ」


 帽子の男は鼻を鳴らし、スリッパに履き替えた。


「あとでもう一人来る。鍵は開けっ放しにしておいてくれ」

「はい」


 ナギは扉を閉めてナイフを花瓶の裏に戻すと、三和土たたきに脱ぎ散らかされた靴を揃えながら、帽子の男の背中に尋ねた。


「あとで僕も見に行ってもいいですか?」


 暗闇に溶けた足音が止まり、声だけが返ってくる。


「――見てて楽しいものじゃないぞ」

「じゃあ、見に行かないかもです」


 暗がりの奥で肩を竦める気配があった。足音が遠ざかっていく。

 ナギは両手を腰におき、ふぅ、と一つ息をついた。靴箱の上に置いたきり忘れたままになっていた自動車教習所の案内に目を留め、手にとって、二階に向かう。上がってすぐ左手が寝室のふすまになっていた。畳敷きの六畳間だ。


 ナギは部屋の中央近くにそっと教習所のパンフレットを置き、押し入れから布団を出して、畳の角と線に角度を合わせて敷いた。教習所のパンフレットも、布団の角と線に重ならないよう、かつ平行になるように置き直した。


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