107,784円の少年
λμ
プロローグ
107,784円の少年
廃病院の六人部屋を思わせる、白く薄暗い部屋だった。壁を覆う白いタイルはところどころ
薄っすら埃の積もる蛍光灯が、時折カチカチと明滅し、暗闇に立つ男を照らした。白人だ。青年というには老けすぎ、中年というには若すぎる。灰色のトレンチコートを着込み、灰色の
男の視線の先には、少年がいる。
四歳か、五歳くらいだろうか。浅黒い肌をした少年が、日曜の朝に放映されている特撮のキャラクターが描かれた下着一枚で、両膝を床についていた。少年は黒いアイマスクをつけられており、両腕は背後に回されたうえ親指同士を結束バンドで結び合わされていた。
「坊主。トシはいくつだ?」
帽子の男が底冷えのする声でいった。流暢な日本語だった。
坊主、というのが誰を指すのか分からないのか、はたまた他に子どもがいると思っているのか、少年は首を左右に巡らせた。
帽子の男が、トレンチコートのポケットから煙草の箱を取り出し、一本、唇に挟んだ。オイルライターを握り込み、煙草の先に近づけながらいった。
「ここにはお前しかいないぞ、坊主」
硬質な音を立ててライターの蓋を開け、煙草に火を灯した。帽子の男は一息強く吸い込むと、呆れたように煙を吐いた。
「お前の親父、俺になんて言ったと思う?」
少年が不思議そうに男のほうへ顔を上げる。しかし、その口は開かない。
「
少年は幽かに首を傾げてから、まるで教師に答えるように朴訥に、少年らしく高い声で答えた。
「よくわかんないです」
帽子の男は煙草の火先を赤く光らせ、溜まった灰を足元に落とした。
「――たとえば、お前の腎臓を売るとするだろう?」
「じんぞう」
「そうだ。お前の
「ぞーき」
「臓器だ。左右に一つづつあって、一つ取っても死ななくて、糖尿病だらけの現代では最も需要のある臓器だ。需要があるから高値もつく。だいたい……一個で二千万円くらいになる」
「にせんまんえん」
ほんの僅か、少年が胸を張った。仰け反ったというべきだろうか。
帽子の男は眉間に皺を寄せつつ続けた。
「ただ、臓器の売買は難しい。売り手を見つけるのに金がかかり、お前から取り出すのに金がかかり、移植するにも金がかかるんだ」
「金が、かかる」
「そうだ。まあ、お前はまだ若そうだから、もう少しくらい値がつくかもしれない。だが、お前が受け取れる金は、だいたい十万くらいになる」
「お父さんが僕につけた値段と同じですね」
少年の声は震えていなかった。淡々と、確認するような口ぶりだった。
帽子の男はちびた煙草を吸いやめて、足元に落とした。灰と一緒に黒い革靴で踏み潰し、つま先でこじった。
「だいたい合ってるんだ。腹立たしいことに」
「あってるんですか」
「そうだ。お前は日本人で、若くて――」
「今年で六歳です」
帽子の男は呆気に取られたように小さく顎を上げ、眉間の皺を緩めた。
「――六歳で、健康だから、お前の手元に十万くらいは残るんだ」
「残りの千九百九十万円はどこにいっちゃうんですか?」
「……六歳にしては賢いな」
「お父さんが怒るんです。――わかっても、わからなくても」
「酷いやつだな」
「ひどいやつなんですか?」
「ひどいやつだ」
帽子の男は両手をポケットに入れたまま、しばらく少年を見下ろし、いった。
「残りの金は、手数料に消えるんだ。さっきいった二千万円というのは消費者が払う金額でな、そこから医者への給料に口止め料、場所を貸してくれる奴への給料と口止め料、手配師の給料に口止め料、保険として警察への口止め料も用意しておいて、そこから、ようやく俺たちの給料になるんだよ」
「口止め料? がいっぱいですね」
「そう、いっぱい、いるんだよ」
帽子の男は唇の両端を薄っすらと吊り上げて少年の前にしゃがみ込むと、人差し指を少年のアイマスクに引っかけ、ずり下げた。
少年が眩しそうに瞬いた。つぶらな黒い瞳だ。
「だから、悩んでるんだ。お前の父親を信じて、素直に仕入れ値を払って、バラバラにして、面倒で口止め料がいっぱいいる使い方をするか――」
帽子の男が腕を伸ばし、少年に顎を上げさせた。ポケットから新たな煙草を取り出して、彼に咥えさせた。ライターを点け、火を先端に近づける。
「お前はどうしたい?」
「僕は――」
少年はもごもごと言って、帽子の男の真似をするように煙草を強く吸い込み、咳き込んだ。煙とともに唇を離れた煙草が床を叩き火の粉を散らした。何度も、何度も咳き込んで、目を涙で潤ませた。
「僕は、長生き、したいです」
「だよな。わかるよ」
「できますか?」
「俺は、それでもいいかと思い始めてる」
いって、帽子の男は、今度ははっきりと笑った。
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