3:常春の国

「ジェミト、さっき帰ったはずなのにもう戻ってきたの?」


 小鳥がさえずるような心地よくてくすぐったいような声が聞き慣れた名を呼ぶ。深い森の色をした瞳はしっかりと俺を捉えていて、それからよく磨いた氷みたいにすべすべとした手で俺の頬を親しげに撫でてくる。

 夏の木々で染めたような鮮やかな草色をした髪にはツタが絡み合い、ところどころに鶸色や濃い紅色の花が飾られている。それに、森の中を歩くのだというのに素足で裾がひらひらとした貫頭衣を身に纏っているだけだった。

 そこまで思考して、ああ、これは人ならざるものなのだ……と合点がいく。


「俺はジェミトじゃない。あいつの兄貴だよ」


「あら、だからよく似ていたのね。目元も肌の色も、髪の毛の色もそっくりね」


 歌うような調子で話す彼女は、木漏れ日に照らされているからか薄ら光って見えて、ダメだと思うのに頬に添えられた手に自分の手を重ねていた。


「私の名前はね、春を祝福する歌カンターレ。私のことがえる素敵な殿方とお話をするのが好きなの」


 俺が何か答える前に彼女の唇で言葉が奪われていた。むせかえるほどの甘い匂いと味で頭の内側が溶けてしまいそうになる。

 ジェミトもきっとこうして彼女と出会って、心を奪われてしまったのだろう。

 そっと押し倒されて気が付くと、柔らかな葉と花で作られたしとねが背中に当たる。

 きっとこれは昔から言い伝えにある男を妖精の国あちら側へ連れて行ってしまう人ならざるもの森の貴婦人だ。夏の間、森の中で果実や花の恵みをもたらす精霊。わかっているのに、甘い色香にあらがえずに俺は彼女の体を重ねた。


「俺のことはあいつに……ジェミトに秘密にしてくれないか?」


 情事の後のひととき、俺は彼女に一つの提案をした。


「なぜ? 私の愛はあなたにもジェミトに変わらず注ぐっていうのに?」


 俺もジェミトも多分同じ女を抱いているなんて知ったとしても気にしないと思うのだけれど。俺に負い目を感じているあいつが、俺への償いとして勝手に彼女への気持ちを諦めないように……そんなくだらない懺悔のような思いやりのような……。


「愛を平等に注いだ男たちが殺し合ったり憎み合ったことに心当たりはないかい?」


「……ああ! 確かにそんなこともあった気がするわね」


「俺たち人間は、愛した女の特別でいたいのさ」


「貴方はちがうっていうの?」


 無垢な声で彼女は囁く。こうして愛を囁かれたあとで、無邪気に他の男に自分と同じように愛を囁く彼女の姿を見れば、大抵の男なら狂っちまうんだろうなってのが簡単に理解出来た。


「俺も同じだよ。だから……こうして特別な秘密を君と持てる。そして、ジェミトは自分だけが特別な関係を持っていると思っていられる」


「ううん……でも常春の国の民私たちは嘘を吐けないのよ。聞かれなければ言わないことは出来るけれど」


「それでいい。ありがとう」


 彼女の額に唇を落とすと、彼女はくすぐったそうに笑う。

 人ならざる美しい存在を自分だけのものにしたいという気持ちを必死で抑えながら、俺は来年は森に近付かないようにしようという決意を密かにした。

 村の掟では「人ならざるものと一線を越えてはならない」と言われているが、その時は俺が泥を被ろう。いつかバレるその時が来たら、あいつに望まないものを押し付けてしまった罰を受けよう。


「また来るよ。少なくともこの夏が終わるまでは……君に恋い焦がれていたい」


 傾いてきた日差しに気が付いて立ち上がる俺の袖をそっと掴んだカンターレは、髪に飾っていた花をそっと摘んでこちらへ差し出してきた。

 口元に押し付けられた花を受け取ると「飲んで」と、柔らかくて甘い声で彼女が囁く。

 花を逆さまにしてガクを外して口に含む。滴るように溢れてきた蜜は、彼女の声と笑顔みたいにあまったるかった。

 

「これでまた会えるわ。じゃあね、ジェミトのお兄さん」


 あれだけ歩き回っても出られなかった森からは、彼女と別れてからは嘘みたいにすんなり帰れた。


「まだ、彼女がそばにいるみたいだ」


 ふわりと自分の髪から漂ってきたカンターレの甘い残り香。それにジェミトが勘付かないように、わざわざ湖で体を洗ってから村へと戻る。間男みたいだなと口に出してから、紛うことなき間男だよな……と思い直す。

 彼女と逢瀬を重ねている内に短い夏はすぐに終わり、厳しい冬が訪れた。

 そして彼女のいない冬を過ごしている間に他の女をいつもより多く抱いたが、カンターレと会えない飢えが増していくだけだった。きっとジェミトもそうだったのだろう。親父もお袋も俺たちが村の女と子作りをすることを喜んでいたが、真実を知っている俺だけが、ジェミトを気の毒に思った。

 雪が溶け始め、カンターレに会いませんようにと願いながらも、どこかでうっかり会うことを期待しながら森を歩いていると、針葉樹の木々の奥から薄らと光る衣を身に纏った彼女に出会った。


「愛しい人、いい子にしていたかしら? 春と私を迎えられたことに感謝の口付けをしてくれる?」


 歌うように愛を囁き、大切なものを扱う用に体に触れるカンターレを突き放せるはずも無く、なし崩し的に関係を重ねることを繰り返した。毎年「今年で終わりにする」と思いながらも、何度も彼女と逢瀬を重ねてた。

 ジェミトと鉢合わせをしないように慎重に時間を選んでいたからか、彼女と逢うのは夜になることが多かった。

 いつのまにか、夜には小さな隣人妖精たちの瞬く光が見えるようになっていた。夜目が効くようになったからか、暗い森の中でも歩くのは苦じゃ無い。

 それに、黒い靄のような大きなナメクジみたいなものもよく見るようになった。アレは魔物になる前の良くないものらしいというのもカンターレが教えてくれた。 

 黒い靄やナメクジは弱っている生き物や草花にくっ付いて病気を引き起こすのだという。


「ジェミトはお日様みたいに笑うけれど貴方は月の光みたいに静かに笑うのね」


 彼女の髪に飾られていた果実を差し出され、そのまま受け取って囓っていると、カンターレが漏らすようにそう呟く。

 流れるようにそっと頬を撫でられて微笑まれると、吸い付いてしまうように唇を重ね合った。

 お互いの舌を絡め合って抱きしめ合うと、体が満たされていく。


「貴方はちゃんと常春の国の民向こう側に近付いているのね」


 そのまま熱く混ざり合った後に寝転がっていると、俺の目を覗き込みながら彼女が無邪気に微笑んでそう言った。

 という言葉に俺はギョッとしながら体を起こす。

 隣人妖精たちの姿が見えるようになったのも、夜目が効くようになったのも、他のヤツらが見えない黒い靄に気付くようになったのも……関係しているのか?


「……どういうことだ?」


「怖い顔になってるわよ」


 眉間に寄せたシワにそっと冷たい指先を当てられながら、にっこりと余裕たっぷりに笑うカンターレはふわりと髪を揺らしながら俺が食べ終わった赤い果実へ視線を送った。


「あなたが飲んでいた花の蜜も、今食んでいる果実も私の体の一部なのよ」


 そういうと彼女の髪に絡みついていたツタに実っていた蕾が次々と花になり、そして赤や黄色の果実に変わっていく。

 草と花で出来た褥へ、ぼとぼとと音を立てて落ちたはずの果実は彼女のドレスの裾の中に溶けるように消えていった。

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