2:邂逅

 体のダルさが引いて目を開くと、目の前には燃える炎のように赤い毛皮の狼がいた。

 目の前にいるのは雄牛ほどはある大きな狼だ。殺意は感じない。これが言い伝えにある神様なのだとなんとなく感じ取った俺は狼の方へ数歩進み出る。


――我は、神獣ヤフタレクの意思の欠片。お前を現世と神の地の狭間へ呼んだ存在だ。


 低くて威厳のある声が、体の内側に響くように聞こえてくる。

 予想通り、目の前にいるのは神様と呼ばれている存在だった。


――お前に覚悟はあるか? 力を得て氷の蛇と戦い、村を守る覚悟が。


 俺は、胸に手を当てて薄らと浮かび上がっている紋様を見た。それから、息を深く吸ってゆらゆらと毛皮の先端を揺らしている狼の神をまっすぐに見つめる。


「俺よりも適任のやつがいるのは神様だって知っているんでしょう?」


 カマをかけてみた。神様が本当に優秀な男を選ぶのなら、ジェミトのことだってわかってるはずだ。そうじゃないのなら見る目がない出来損ないの神様だろう。不敬だと言われて親父には怒られるだろうが、そのくらいのことを考えながら俺は目の前にいる神様へそう答えを告げた。


――ジョミンコ家の長兄ディレット、次兄ジェミト……番犬クーストースの長に選ぶ候補が二人いるのは確かだ。しかし、どちらかが圧倒的に優れているというわけではない。


 てっきり神様ってやつは傲慢だったり人の話など聞かないと思っていたが、案外この村を守っている神様の意思とやらは融通の効くやつらしい。

 どんな魔法なんだか知らないが、取り付く島があるのなら、俺がすべきことは、与えられる権利と力をあるべき相手へ譲ることだ。


「それでも……あいつは俺よりもずっと努力してるし、村のみんなからだって好かれて……」


――選択権は長兄であるお前にある。お前が納得いく答えを出すといい。


「俺の答えは決まってる。炎狼の加護と番犬クーストースの長には次兄ジェミトに相応しい」


 狼のたてがみが大きく膨れ上がり炎へと変わる。それと同時に胸が熱くなったと思ったら、メラメラと天に昇るように渦巻いて燃える炎へ向かって俺の体から一筋の赤い光線が飛び出していった。

 岩だらけの山間のような空間と、天を衝くような炎の渦をしばらく見ていると誰かの声が俺の名前を呼んでいる気がして我に返る。

 体が勝手に浮き上がるような感覚に襲われて、目の前に広がっている景色がどんどん薄れていく。

 焦りは無かった。ただ、今まで背負っていた罪悪感や焦りから開放されたからかとても晴れやかな気分で俺は目を覚ました。


 俺と半日違いでジェミトは目を覚ました。

 あいつは夢を見なかったのか、それとも俺と違って神様と話した記憶がないのか自分の胸に浮かび上がった紋章を見て驚いた表情を浮かべて、それからこっちを見て目を皿のように大きく見開いた。

 キュッと点のように小さくなった瞳孔がゆっくりと元に戻ってから、いつもの溌剌としたあいつからでたとは思えないくらいに掠れた元気のない声で「嘘だろ」と呟いた声が聞こえて、俺も耳を疑う。

 だって……お前は……ジェミトは番犬クーストースの長になりたくてあんなに一生懸命がんばってたんじゃないのか?

 望まないものを良かれと思って渡してしまった自分の罪に気が付いた時にはもうなにもかもが手遅れだった。


「兄貴、ごめん」


 弟からの謝罪に対して、俺もごめんと返すことは出来なくて、曖昧な笑みを浮かべて誤魔化して、それから「気にするなよ」とだけ絞り出すように声に出す。

 俺は、ただお前の努力が報われて欲しかっただけなのに。


 何も言い出せないまま、俺はジェミトが正式な番犬クーストースの長になるために儀式を行う横顔を見つめている。

 香炉に入れられた乾燥させた薫衣草ラベンダーの灰を一掴みした親父が、ジェミトの胸にそれを放り投げる。青味を帯びた薄灰色の粉が神様に選ばれた証あたりにぶつかってハラハラと空気中に舞い散る。爽やかさを含んだ甘い香りの中で厳かに行われていた儀式は無事に終わった。


「こんな立派な弟の兄なんて鼻が高いよ。だから、俺からその座を奪ったなんて思い詰めないでくれよ」


「兄貴……オレ」


「こういったら親父に怒られるかもしれないけどさ、オレはお前が番犬クーストースの長になってよかったと思ってる。だから、気にすんな」


 慰めでしかない。お前が望んでると思って、俺は力を譲ったんだなんて言えなかった。

 それを言っても俺がすっきりするだけでアイツのこれからの苦労や責任を肩代わり出来るわけじゃない。俺に出来るのはあいつを隣で支えて村を守ることだ。

 徐々にジェミトは元気を取り戻していき、番犬の長クーストースとして、この氷と雪に閉ざされた村の次期村長としての振る舞いも様になり始めた頃だった。

 何度も聞いた「お前が劣ってるわけじゃないさ」という意味の言葉や「あなただって魅力が無いわけじゃないのよ」という慰めの言葉に「大丈夫、わかってるさ。ジェミトがいいやつすぎるだけだって」と返すのにも慣れてきた。

 嫌になるくらい長い冬を何度目か終えたある春の日……。通い慣れたはずの森で迷っている俺の目の前に現れた相手に恋をした。

 魂が灼かれるっていうのはこういうことなのかと透けるように白い肌のあまい果実の匂いがする女を見ながらそう思った。

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