第9話 兎たちの沈黙

 世境よざかいの町外れに、その牧場はあった。

 竹で編まれた厳重な囲いの中に、白い獣たちが何十匹も閉じ込められている。獣たちはそこで草をみ、愛を睦み、日に日に強さを増す陽光に耐えていた。


(おとっつぁん、おとっつぁん、暑いよう)

(ああ、暑いな。おとっつぁんとおっかさんが影を作ってあげるから、ここに隠れなさい)

(暑いよう、暑いよう)


 シモフリウサギたちである。カナコによって捕らえられた3匹から始まり、多額の懸賞金をかけられたシモフリウサギたちは、冒険人足によって近在の山々からこの牧場に集められていたのだ。シモフリウサギは繁殖力が高く、この牧場で生まれ育ち故郷の雪山を知らない世代まで誕生していた。


「ぎひーぎひぎひぎひ! ちみたちぃ~、順調に増えてるかい?」


 悪魔だ。悪魔が来た。

 この牧場を管理する、大場カナコという人間だ。赤茶けた髪を揺らしながら、うきうきとスキップしながらやってくる。


「おほー、新しい子供たちが生まれたねえ。かわいいねえ、かわいいねえ。子供は牧場の宝だよぉ。早く育って、ちみもたくさん子供を作るんだよぉ~。ぎひーぎひぎひぎひ!」

「きゅい~! きゅい~!」


 我が子の口元に高麗人参を押し付ける大場カナコを、シモフリウサギ(父)は憎しみのこもった目で睨みつける。最初はまだまともだったのだ。新鮮な野菜を与えられ、雨風がしのげる屋根のある場所に住まわされた。それがいつの間にか、日差しの厳しい露天に変わり、「精がつく」と称して苦味ばかりが強い野菜を与えられるようになった。


「社主、そろそろ蔦屋さんとのお約束の刻限が」

「おおっと、もうそんな時間かい。蔦屋さんには一文寿司をもっと流行らせてもらわないとねえ」


 真っ黒な着物を着た男が、カナコに報告に来た。十数人が一度に乗れる長い駕籠が、駕籠かきにかつがれてやってくる。離無尽りむじんと名付けられたその駕籠は、いまや一文寿司の頭目たるカナコの代名詞となっていた。


「ぎひーぎひぎひぎひ! おっと、そいつとそいつ、だいぶ大きくなったねえ。そろそろ仕事ができるんじゃないかい?」

「ハッ! カナコ様、承知しました」


 息子が、娘たちが竹籠に詰められて出荷されていく。生臭い魚と共に、ひたすら空気を冷やすだけの生活が待ち構えているのだ。


(おとっつぁん! おとっつぁぁぁあああん!!)

(待て! 待ってくれ! その子はまだ生後十日も経ってないんだ!!)

「ぎひーぎひぎひぎひ! お前たち、よーく魚を冷やすんだよう」


 シモフリウサギ(父)の瞳に、憎しみの炎が灯る。我が子を連れ去られるという、圧倒的に憎しみに瞳が真っ赤に染まる、兎は寂しいと死ぬという。これは誤りだ。そんな習性は兎には存在しない。しかし、家族を愛する心は確かに存在するのだ。


(絶対に許さない……!)


 白い霜が、シモフリウサギ農場に薄っすらと降り始めた。


 * * *


「ぎひーぎひぎひぎひ! 蔦屋さん、もっと煽っておくれよぉ。飲み会の締めには一文寿司を食わなきゃ江戸っ子じゃないってそんな感じでひとつよろしく頼むよぉ」

「いやはや、カナコ様はまことにご慧眼だ。草双紙や瓦版から流行を創り出すなど、この蔦屋重三郎(※)にも到底思いつききませんで」

「なぁに、百年も経てば常識になるのよ。凡愚な大衆どもは所詮情報を食っているんだ。『これが流行っている。これが美味い』って決めつけちまえば、疑うやつなんていねぇのよ」

「まさしく、まさしく」


 私は日本橋の料亭で蔦屋重三郎と酒を酌み交わしていた。肴はもちろん大トロのお寿司だ。きちんとした職人に握らせている。量産型の寿司などマズイに決まっている。シャリはぎちぎちだし、ネタの切り口はざらざらで口当たりも悪い。一文寿司など所詮は貧乏人の食い物なのだ。


「カ、カナコ様! 一大事でございます!!」

「あーん? 何が大事だってんだい? いまは蔦屋さんと大事な商談の最中だぞ」

「それが、それが……世境よざかいの方から……」


 黒い着物の下っ端が窓を開け放つ。春と言っても夜はまだ寒いんだから、そういうことはやめて欲しいなあ。しかし、遠くに見える光景に私の目が凍りついた。


「な、なんじゃありゃぁぁぁああああ!?」

「竜巻です! 氷の、吹雪の竜巻です!!」


 そこには、江戸の街を蹂躙する白い竜巻の姿があった。それも何本も。屋根瓦を吹き飛ばしながら、竜巻の群れがこちらに向かって迫ってくる。


「な、何だアレは!? 黒服、説明しろ!」

「へ、へい! どうやら牧場から逃げ出したシモフリウサギどもの仕業のようで……」

「ぎぃぃぃいいい! なんでそんなことになってるんだ! ウサ公どもにはたっぷりエサもやっていただろう!」

「へい! 言いつけのとおりに高麗人参や冬虫夏草までやっておりやす!」

「ぎぃぃぃいいい! それでつけた精力を何を無駄に使ってるんだい!」


 結論から言おう。シモフリウサギ共の反乱は、私には抑えられなかった。大江戸八百八町は雪に閉ざされ、旗本八万騎(※)が出動してウサギたちは雪山に追われ、シモフリウサギの飼育はしてはならないというお触れが出た。そういうことになったのだ。


 * * *


 日付と所は変わって、世境よざかいの冒険人足寄せ場である。花魁めいた色っぽい頭目に、どうにも薄汚れた格好の少女が手でごまをすりながらすり寄っている。私だ。


「げへへへ、姐さん、姐さん、なんかいい仕事はありやすかねえ……?」

「なんだいあんた、ご無沙汰だったねえ。ずいぶん羽振りがよかったみたいだけど、何してたんだい?」

「なぁに、大したことじゃありやせんよ。そんなことより、何か実入りのいい仕事はありやせんかねえ?」

「ふーん、最近だとシモフリウサギの退治が流行ってるけどねえ」

「ややや、それだけは勘弁だ! 何か他の仕事はありやせんかい?」


 一文寿司プロジェクトは、儚い夢に終わってしまった。いまから再び、冒険人足としてイチからやり直すのだ。


「なんか、こういうことになる気がしてたんですよね……」


 コガネちゃんから冷たい視線が注がれている気がするが、そんなことを気にしている場合ではない。私はこの江戸時代めいた世界で生き残らなければならないのだ。




※旗本八万騎:幕府直参の武士が旗本と呼ばれた。要するに幕府の即応戦力なのだが、実際は五千人くらいしかいなかった。旗本たちが雇っていた下人なども含めてやっと7万人くらい。まあ、語呂がよいから定着したのだろう

※蔦屋重三郎:現代のTSUTAYAの創業者である。1750年から1797年の人。本作品の舞台である嘉永2年(1849年)には存在しない人物だ。しかし、そういう細けぇことはすっ飛ばして行くのがこの作品のスタイルである

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