第一章 偽りから始まる愛編

第1話 蹴り上げられた歯車

 玄古家 依代くろこげ いよりの朝は早い。主人が起きるよりも一時間以上前にアラームが鳴っていた。


 カーテンを開くと眩しい日差しが飛び込んでくる。窓を開ければまだ肌寒い風が肌を撫でた。目を細めつつ、イヨリは支度を始める。まずはシャワーを浴びて汗を流す。浴室を出ると即座に髪を乾かして整える。寝ぐせの一つも残してはならない。


 鏡に映るのはそれなりの容貌をした男と言える。お世辞にもイケメンとは言えないが、それでも不細工では決してない。可もなく不可もない男だった。


 髪のセットが終われば、次に手に取るのはハンガーにかけられた高校の制服……ではなく、仕事着のスーツだ。


 糸くず一つ付いていないかを注意を払い、着替えた後も鏡で前後左右を確認する。そして、ようやく部屋を出て主人の部屋へと向かうのだ。


 ノックすると「入れ」と声が返ってくる。部屋に入るとこちらには目もくれず、執事とスケジュールを確認している男の姿があった。豪華な椅子に腰掛けるのは先ほど部屋にあったのと同じ学校の制服を着た青年だ。


 鋭い目つきの男だが、容姿は端麗だ。それは雅というよりもその双眼の如く一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくが刃のような男である。


 彼こそが主人の大御瀧 継頼おおみたき つぎより。古くから続く名家である大御瀧の一人息子だ。イヨリは頭を下げて朝の挨拶をする。



「おはようございます。継頼様」


「ああ」



 挨拶の返事はそれだけだった。執事長にも挨拶をして、「うむ」の一言のみ。イヨリもまた「では失礼します」と一言だけ返してドアノブに手をかけた。


 これが毎朝のルーティーンである。主人への朝の挨拶は欠かしてはならない。そのためだけにイヨリは学校を出る前に一度スーツへ着替えていた。


 最初こそ面倒だと思っていたイヨリだが、慣れればなんてことはない。もはや、そうしなければスッキリしないまである。ある種のブラック企業勤務の順応に似た狂気がそこにはあった。



「待てイヨリ」



 背後からの継頼の声にイヨリに足を止める。振り返るが主人は相変わらずこちらへは目線も向けずに言葉を続けた。



「今夜、許嫁との食事会がある。アレ、お前が代わりに行って来い」


「……はい?」



 思わず間抜けな声を出したイヨリを執事長がキッと睨みつけるが、執事長もまた表情に困惑があった。そのため質問をしてもよいだろうと判断したイヨリは恐る恐る尋ねた。



「えっと、その。聞き間違えでなければ許嫁との食事、とのことですが……俺、いや、自分がですか?」


「他に誰がいる」



 いや、アンタだろ。


 そう言いたくなるのをイヨリはぐっと堪えた。言葉が足りないことに気づいたのか継頼は続きを口にした。



「ああ……お前が、じゃないな。お前が



 執事長が眉の間をつまみ苦い顔をする。イヨリもまた苦い顔をせざるを得なかったが、そういう意味かと得心が行った。


 こういった行動は継頼には珍しくないことだった。


 困ったイヨリに執事長が目線で訴えてくる。仕方なしにダメ元で主人をいさめようと努力することにした。



「いや、あのですね。恐れながら継頼様。ただ立っているだけでいい行事ならまだしも、そのですね。許嫁相手にそれはよろしくないのでは……お言葉も交わすでしょうし」


「構わん。やれ。だろ?」



 イヨリに返す言葉はない。


 執事長が頭を抱えた。そう。イヨリにはのである。それが事態をややこしくさせていた。


 もはや説得はできないだろうとイヨリは頭を下げた。



「……承知致しました。では、今回の食事会ではそうさせてもらいます。」


「ああ。会話の内容は後で書面で寄越せ、記憶しておく」


「わ、わかりました。では、失礼します……」



 めんどくせぇ! ――とは口が裂けても言えるはずもなく……。


 イヨリが部屋を後にすると、十秒も経たないうちに執事長も出てきて後を追いかけてきた。部屋からしばらく離れたところで執事長に呼び止められる。



「待て、イヨリ」


「はい。何用でしょうか、執事長」


「……今は堅苦しくせんでよいわ」


「はあ……。では、改めまして……阿羅あらじい! 継頼様のアレ、どうにかならないんですかねぇ!?」



 執事長こと阿羅橋玄きょうげんはイヨリの絶叫をかすれた笑いで返した。


 当主ではなく次期当主に執事長がお付きになっている理由はこの暴走を止めるためなのだが……いかんせん、この執事長は継頼に逆らえない。というのも過去に継頼の行動を止めたせいで問題が発生した例があったためだ。


 そのために執事長は継頼に頭が上がらない。優秀過ぎるというのも考えものだった。



「すまんなぁ、イヨリ。坊ちゃんは儂の手に余る」



 そういって頭をかく阿羅じいに、もはや執事長の風格はなかった。だがダメな爺の執事長を嫌いになれないイヨリもいた。何より今は父親と呼ぶべき存在、里親でもあるのだから。


 阿羅じいとなった執事長は腕組みをして深いため息を吐いた。



「でもなぁ、イヨリ。お前のその特技も悪いんだからな? その特技がある以上、坊ちゃんはこれからもお前をこき使うに決まっておるわ。そのー……なんだ。うまいこと、やれんか? 問題にならない程度にやらかしての。それで坊ちゃんもお前に演じさせることもなくなるじゃろうて」


「……阿羅じい。俺の特技は基本的に真似まねているだけなんだ。だから、その例がわからないと総崩れになるわけだけど、いいの?」


「ああ、いかんな。それはいかん。どれ、では儂がうまいこと失敗する例えをだな……」


「何をしている? イヨリ、それに執事長」



 イヨリと執事長こと阿羅じいは互いに肩を震わせる。振り返れば後ろには切れたナイフ、もとい額に血管を浮かべた継頼がいた。その風体はもはや御曹司ではない。ヤクザのご子息である。


 まずい。まさか聞かれていたのか。


 何を言われるかとイヨリと阿羅じいは唾を呑んだ。



「車の手配はどうした? 遅刻するだろうが」


「おや? いえ、これは失礼いたしました。継頼様」



 どうやら聞かれずに済んだようだと二人は胸をなでおろす思いだった。


 阿羅じいはいつの間にか執事長の顔に戻っている。こういうところは流石だ、と感心したイヨリだったが慌てて腕時計を確認する。いつもならとっくに屋敷を出ている時間だった。



「やっべぇ!? 遅刻する!」


「イヨリ、主人の前でその口使いはなんだ」


「あ、こ、これは失礼しました。執事長。わ、私は急ぐのでこれで……」


 イヨリは執事長の叱責に頭を下げるが、急がないと遅刻は確定する。走り出そうとしたところを継頼はその首根っこを掴んだ。急に捕まえられたので鴨の喉を閉めたように、イヨリは「ぐえ」と呻いた。



「待て。同じ学校だろうが、乗っていけ」


「え、いや。いやいやいや。その、従者の私が同じ車にというのは……」


「くだらん。このほうが合理的だろ」



 首根っこを掴んだままイヨリは引きずられる。


 主人としての格を見られるという話なのだが……継頼はこうなると聞かない。徹底的なまでの合理主義者、それが継頼だった。


 断るべきなのだが……主のこういうところがイヨリは気にいっている。「ではお願いします」と答える他ない。でも制服はどうしようかと悩んでいると、すれ違う途中で同僚のメイドがイヨリの制服を渡してくれた。


察する能力が高い。流石は大御瀧家のメイドである。受け取ったイヨリは「ありがとう」と口パクで伝えると、メイドも小さく手を振った。


 かわいいかよ。


 イヨリは言葉を発しそうになった口を押さえる。彼女の栗色の長い髪が風に触れていた。


 そうこうして車に乗り込むと、「ああそうだ」と継頼は思い出したように言った。



「貴様ら。さっきのアレどうにかなんないのかだとか、うまいこと失敗だとかに対して申し開きがあるなら聞いてやるが?」



 着替えようとしていたイヨリとハンドルを握る執事長はビタと固まる。体だけでなく空気までも凍り付いていた。



「例の食事会。いいな、イヨリ?」


「……も、もちろんです。継頼様」



 ……こうして、イヨリは代わりとして食事会に出ることになったのである。

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