井上に真実を伝えられて僕は彼女を公園に置いて家に帰ってきた。

 仕返しのつもりなのだろうか。別に彼女は正しいこと言っただけなのに器の小さい僕はそんなことしかできない。本当、明里に相応しくない男だ。

 そんな風に自分を卑下しながら玄関で靴を脱ごうとして転けそうになる。それくらい動揺して足元がふらついていた。

 靄がかかっていたのが晴れて代わりに波のように残酷な過去が押し寄せてくる。何も考えたくないと思うのに嫌な記憶ばかりが解放されていく。

 どうやら井上にパンドラの箱を開けられてしまったようだ。

 記憶消去ができればどんなに楽だろうかと思った。

 僕は風呂にも入らず部屋のベッドに入る。だけど眠れない。

 過去は消えない。罪の意識は薄れないし、薄れてはいけない。誰かが許しても僕が僕自身を許さない。

 結局、午前二時まで僕は眠れずコートを着て外に出る。

「二回目のデートはどうだった?」

 外に出ると当たり前のように明里がいてすぐに聞いてきた。僕はその質問には答えず聞く。

「本当に明里、なんだよな?」

 今まで信じていたのに今更かと思われるかもしれないが井上の話を聞いてからだと少しだけ疑いたくもなる。

 僕の質問を聞いて彼女は目を見開く。そして、頷いた。

「正真正銘、歩の幼馴染の松川明里だよ」

「そうか、やっぱりそうだよな」

 僕を見て彼女は微笑む。

「安心してよ。歩を呪いに戻って来たわけじゃないからさ」

 ああ、やはり彼女は死んでいるのだとその言葉を聞いて実感してしまう。

 公園で井上に言われたことが冗談ではないことが彼女自身の言葉で証明されてしまう。

「ただ心残りがあってね」

「心残り?」

「うん、そうだったんだけど歩と話していたらそれも忘れちゃった」

 ペロッと舌を出す彼女に僕は苦笑する。

「相変わらずだな」

「あ、今。成長してないなと思ったでしょ」

「幽霊は成長しないんだろ?」

 幽霊が老けていたら笑ってしまう。それならそれで生きている時と変わらないと思えるかもしれないが。

「まあ、そうだけど。私の場合は元々精神年齢が高いからね。大人の女過ぎてこれ以上成長すると困るし」

 僕はそう語る彼女を見つめることしかできない。

 あのクリスマスイブの日、横断歩道で倒れていた彼女が動いている。そのことがとても嬉しく胸が熱くなる。それと同時に申し訳なさでいっぱいになる。いくらこんな感情になっても過去へと巻き戻ることはないとわかっているのに。

 過去の悔しさをぶつけるように僕は彼女を抱きしめた。

 突然のことだったからか驚いた様子で彼女が言ってくる。

「なに? 苦しいよ」

「悪いけど我慢してくれ。……僕だって沢山我慢したんだから」

 死ぬのを、殺すのを我慢した。明里を理由にしてそんなことしても明里は喜ばないと思っていたから。そう、信じていたから。僕はただ殻にこもり続けた。周りから逃げていると言われても逃げも人として生きるための手段だと信じていたから。

 明里は抵抗するのをやめて僕の背中をポンと叩く。冷たいはずの彼女の体からはなぜか熱を感じる。

「よく頑張ったね、歩」

 子供を褒めるように明里は言った。

 そんな労いの言葉を求めて抱きしめた訳ではないので違うと言うように僕はさらに明里を強く抱きしめる。

「……子ども扱いするな」

「よく、頑張ったよ」

 優しい声音で優しい言葉をかけられて悔しいけど涙が流れてしまう。

 まだ僕に流れる涙があるなんて思いもしなかった。既に涙は流しきったと思っていたからだ。でも、日々を生きていたら涙はちゃんと流れるようになっている。悲しいけど明里が死んでからちゃんと時間は過ぎている。

「ふざけんなよ。なに勝手に死んでんだよ。野球もっと観るんだろ。プールで泳いで、アイスの当たり交換するんだろ。夏祭りで花火を見るんだろ。イルミネーションだってもっと違うところで一緒に見たい。お花見だってしてない。春に桜を一緒に見るって約束しただろ」

「ごめんね、歩」

「ふざけんなよ、僕が悪いのに明里が謝るなよ」

 僕が彼女に死を与えてしまった、それが事実なのだ。

「歩は悪くないよ。あの日だって私のためにプレゼント買いに行ってくれたんでしょ? だから別行動しようって言ったんでしょ?」

 彼女を抱きしめたまま僕は泣きながら頷く。やはり僕の行動なんて明里にはお見通しだったようだ。僕の涙が彼女のコートの襟に水玉模様を作る。

「やっぱり歩は優しいね」

「怒れよ、僕が一緒にいたら明里は」

 死んでいなかったと言おうと思ったがそんな無責任なこと言えるはずがなかった。僕如きが明里を事故から、運命から守れるわけがない。だからその言葉を飲み込むしかなかった。

 代わりにどんな言葉を伝えれば良いのかと逡巡していると明里が口を開く。

「歩が轢かれなくて良かったよ」

 本心から彼女は言っているのだろう。そんな大人な彼女を餓鬼の僕は許せない。

「僕なんか死んでも誰も困らない。明里が死んだからみんな悲しんだ。沢山泣いた。僕だって親友の井上だって沢山泣いたんだ! 大輝くんだって悲しんでいる!」

 明里はみんなの星だった。灯りが一つなくなれば世界は暗くなる。

 しかし、影がなくなっても誰も気が付かない。

 本当に必要な人間が理不尽に死んでいく。ここは、そんなクソみたいな世界だ。

「みんなには悪いことしちゃったね。みんなに謝りたいけどこの体だと無理だ」

 彼女は悪戯っぽく笑う。

「諦めるなよ。みんなには明里が必要なんだから」

 諦めるな、なんて僕のような人間が言う時が来るなんて思いもしなかった。普段ならポジティブさなんて微塵もないのに明里を現世に残すためならなんでもできるのだと思った。

「そうかな? みんなもう私のことを忘れようと生活している。私がいなくても大丈夫。いなくても駄目な人間はいないけど絶対にいないと駄目な人間もいないんだよ。じゃないと人は安心して死ねないでしょ? だから私のことを見えているのは私を未だに必要としている歩くらいだよ」

 ふざけるな。あんなに明里に軽々しく好きだとかファンとか言っておいて死んだらすぐに忘れるのかよ。どうしてそう簡単に諦められるんだよ。忘れられるんだよ!

「でも、それで良いんだよ。それが正解。いつまでも死んだことの人を考えていたら自分の人生が無駄になっちゃう。人生って長いようで短いからさ大切に生きなきゃ。歩だってそうだよ」

 そう諭す彼女に僕は彼女の言った正解を否定するために首を横に振る。

「無駄になって良い。僕の人生なんか最初から無駄なんだから」

 明里の将来を奪っておいてこれ以上、生き続けるのは正直辛い。だから楽になれるのならなりたいと思ってしまう。

「明里と一緒にいられるなら僕は死んでも良い」

 僕は縋るように呟いた。

 それを聞いた明里は僕の腕から離れて僕の頬をビンタした。乾いた音が夜に響く。

「いつまでそんなこと言ってるのよ! ……私がどれだけ、どれだけ生きたいか!」

 声を枯らして叫び彼女は涙を流す。こんなに長く一緒にいて明里の涙を初めて見た気がした。いつも気丈に振る舞っていた彼女の弱さを見てしまった。そのことがとても申し訳なく思えた。

「ごめん」

「謝罪なんていらない」

 明里は僕を睨んで真剣に脅しのように言う。

「命を無駄にしたら私が許さない。神様とかそんなちんけな存在より私が絶対に。その時は二度と歩と口をきかない。きいてあげないから!」

 僕が死んで幽霊になっても、ということだろう。

 死んだ時のご褒美くらいは残しておきたいなと思った。

「それは嫌だな」

 明里は僕の胸を軽く叩く。

「なら、ちゃんと生きてよ。呪いたくなるくらい幸せになってよ。それで信号無視なんかする大人に文句言ってやってよ」

 明里は強いなと思った。不安なのにそれを隠そうと努力して誰かの背中を押すのだから。僕だったら絶対に誰かを呪うし恨む。他人の幸せより自分の幸せを、それが他人の不幸だとしても。それを明里はしない。なんでこんなに優しい人間が死んで僕たちのようなクズが生き残るのだろうか。

 やはりこの世は間違っている。

 そう、思うしかない。だけど、一つの呪いを幼馴染からかけられてしまった。生きて幸せになれという優しい呪いを。

「正直、僕は生きるのが怖いよ。明里がいないことに向き合うことが本当に怖い。それでも生きてみるよ。これが罰なんだと信じて」

 死んで罪を償うなんて自己満足だ。僕が死んだところで明里は生き返らない。それなら罪人である僕にできることはなんなのだろうか。そんなの僕の頭で出せる答えではない。それだけは今でもわかる。だから、いつかはわかると信じて必死に生きてみようと思う。

「別に罰なんて望んでないけど、歩が生きてくれるならそれで良いか」

 妥協してやると言わんばかりに明里は溜息を吐く。

「人間なんて意外と簡単に死ぬから必死に生きていたらすぐ死ねるわ」

「死んだ奴が言うと説得力あるな」

「でしょ。死者からのメッセージとかいうタイトルで本を出したいレベル。重版間違いなしね。印税で何を買おうかな」

 そんな彼女の冗談に僕は自然と笑みが溢れてしまう。

 そんな僕を見て明里も笑って言う。

「人間、笑うのが一番だからね。私が死んでから歩、全く笑ってなかったから心配だったよ」

「見てたのかよ」

「うん。死んで千里眼が使えるようになったの」

「マジか⁈」

「嘘よ」

「なんだよ、からかいやがって」

 明里はふっと満足そうに笑う。

「でも見ていたのは本当。ずっと見ていた。あ、盗撮していたわけじゃないから許してね」

 僕が部屋で情けない姿を晒していたのも見られていたというわけか。それなら彼女がここにいる理由もわかる。

「心配してきてくれたのか」

 口にしてからそんなの当たり前だろと自分にイラつく。

「そういうことにしておいてあげる」

 人のことは言えないが素直じゃないなと思った。

「ごめんな、ありがとう」

 僕は明里にシンプルな謝罪と感謝しかできなかった。


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