いつかを夢見てシャイニング・フューチャー!(上)(side.シグルド)

 彼の人生が大きく変わった分岐点は、孤児だった彼が年下の女の子に拾われたことだ。


 スラムの娼婦だった母が亡くなり、働く場所を得られなかった彼は、他の孤児たちと徒党を組んで盗みをするような、その日暮らしの生活していた。

 そんなある日、彼は盗みをした孤児の仲間をかばい、大人からひどい暴力を受け、路上に倒れた。

 なんとかほうほうの体で逃げ、路地裏の隅に隠れたけれど、棒きれのような痩せぎすの体ではそれ以上動くこともできなくて。

 これで死ぬのかと思ったとき、たまたまその路地裏にいたドレスの女の子と目が合った。

 彼に比べてずいぶん幼い子だ。たぶんまだ三歳くらい。

 真っ黒い髪に、金色と水色の色違いのガラス玉をはめ込んだような瞳。ちょっとだけ吊り目で気位の高そうな女の子は、彼と目が合うとびっくりしたように目を丸くさせた。


「あなた、生きてるの?」


 まだ生きている。なんて失礼な子供か、と思った。

 だけどこのまま放置されれば、自分は間違いなく死ぬとも思った。

 それでも言葉を発することすら億劫なほどに弱っていた彼は、何も女の子に言い返すことはしなかった。

 女の子は少し考える素振りを見せると、彼のお腹に手を当てる。


「ねぇ、あなた生きたい?」

「……」

「私の従者になってくれるなら、三食おやつ昼寝つきの素敵生活をあげるわ。でもその代わり、期限がある。私が死んじゃうまでの期限だけど。それでもいいなら、あなたを助けてあげるわ」  


 女の子の話し方はひどく大人びていた。自分より幼く見えるし、スラムで面倒を見ていた仲間のことを思えば、その年齢に見合わないしっかりした話し方で、まるで大人と話しているように聞こえた。

 彼は少し考えた。

 目の前の女の子はたぶん貴族だ。貴族の従者になるというのは、想像ができない。

 答えあぐねていると、女の子はにっこりと笑った。


「そうね、そうしましょう! それがいいわ! あなた死にそうだし、私も新しい可能性が開けるわ! 素敵ね! うぃんうぃんね!」


 そういうと、女の子は彼のお腹に当てた指で魔法陣を描き出した。


「三食おやつ昼寝つき。私はあなたの生活の保証をします。あなたは私の従者となって、私の手足となること。私の秘密を守ること。私を裏切らないこと。この契約は私が死ぬまで。私が死んだらあなたは自由よ」


 女の子の描いた魔法陣が、明るく輝いた。

 かちん、と頭の中になにかの枷がはめられたような感覚。

 おそらくこれは、契約の魔法、なのだろう。


「短い間だけれど、よろしくね」


 女の子は楽しそうに笑う。

 身勝手な女の子を、彼は鋭く睨みつけたけれど。


「とりあえずパンを育てましょう。お腹空いてるでしょう? こんな身体では屋敷に帰るまでに倒れてしまうわ!」


 唐突にそんなことを呟いた女の子は、ドレスのポケットを探り出した。

 そして手のひらに出てきたのは、小麦らしきもの。

 もちろん、粉になる前の実のようなものだ。

 その手のひらの小麦に向けて、女の子は。


「おいしいパンになれ〜、パン〜」


 小麦がすくすく育つ。穂から成長し、次の穂を実らせ、暗い路地裏を黄金の小麦畑にしてしまった。

 だけどパンはできない。

 麦がざらざらと路地裏を埋める。

 女の子が首を傾げる。


「あら? パンができないわ?」


 この女の子、賢いようで馬鹿らしい。

 小麦はパンが成る植物だとでも思っていたのだろうか。

 魔力だけは豊富なようで、勝手に契約を交わされた彼は、少しどころかかなり不安になった。

 先行きが不安すぎて、交わすつもりのなかった言葉がうっかりと口から滑ってしまう。


「……パンは小麦から育たない」

「そうなの? なら仕方ないわ。ご飯は後で用意してあげる」


 かなり馬鹿だけれど、優しくて純粋な子ではあるらしい。

 そんな女の子の名前はアニエス・ミュレーズ伯爵令嬢。

 彼の人生の大番狂わせは、彼女と出会ったことから始まったのは間違いない。



 ◇



「シグルド、一緒にお昼寝しましょ!」


「シグルド、パンは小麦粉からできるのね!」


「シグルド、私、鳥になるわ!」


「シグルド、私、魚になる!」


 シグルド、シグルド、と名前を呼んで、二つの色違いの瞳を輝かせて、アニエスは笑う。

 最初の頃は反発ばかりだったシグルドも、笑顔を浮かべてとんでもないことをしでかそうとするアニエスに振り回され続けて、だんだんとほだされていった。

 それこそ、鳥になると言って崖から飛び降りたときは、母が死んでも泣かなかったシグルドの心臓が引きしぼられるかのように痛んで、アニエスがおろおろとしてしまうくらいに泣きわめいてしまった。これは全くもって、彼の中でも未だに黒歴史に残っている。

 でも、それがきっかけで。

 彼はアニエスがどうしてこんなにも馬鹿なことばかりしているのか、その理由が気になり始めた。

 アニエスに聞いても「もしかしたら、これが必要になる時がくるかもしれないじゃない!」としか教えてくれない。

 百歩譲って、パンを作る魔法は良いとしよう。もしかしたら領民のために必要になるかもしれないし、実際にシグルドにしてくれたように、行き倒れている誰かのためにパンを目の前で生成しようとする瞬間がまったくないわけじゃないかもしれない。

 ただ、伯爵令嬢が崖から飛び降りるとか、魚に変身するような状況とは、いったいどんな状況なのか。

 それとなく、アニエスを遠巻きにしている使用人たちにも探りを入れるけれど、お嬢様は変人だからの一言で済まされる。

 正直、その変人を皇太子妃に据えていいものかと、シグルドが思うこともしばしば。

 初めて彼女が皇太子の婚約者だと聞いたときには、このお転婆が? この国大丈夫か? と思ったくらいだ。

 けれどその魔力量の豊富さを理由に据えられたアニエスの皇太子妃の座については、ほとんどの人間がそれを当然のように受け入れていた。


 アニエスがそれを、受け入れているかを無視して。


 それこそシグルドから見て、アニエスは皇太子を遠ざけているようにも見えた。

 そもそもシグルドがアニエスに拾われたあの日はちょうど、皇太子との婚約のための顔合わせの日だったらしい。

 アニエスは婚約が嫌で逃げたのだとか。

 当時三歳だったらしいアニエスの行動力は凄まじかったようだ。婚約が嫌で魔法を使って全力で屋敷から逃げ出した先で、シグルドに会ったらしい。偶然とはおそろしいものだと思いつつ、こんなにアニエスも嫌がっているのだし、もう婚約者なんてやめさせてやればいいじゃないかと思ったのを、今も覚えている。

 結局、シグルドを従者にしたことで、アニエスは屋敷に戻り、皇太子とお見合いをしたようだった。シグルドが他の使用人に食事を用意してもらったり、身繕いさせられている間に、わずか三歳の主人はお見合いしていたらしい。後になって知って、ある意味彼女の人生の分岐を、自分が変えてしまったのかもしれないとも思った。


 そんな経緯で未来の皇太子妃になったアニエス。

 ここからも、大変だった。

 そもそも月の巡りで義務付けられている王族の儀式とやらも、行くのをかなりごねる。そのたびにシグルドが使用人から宥めすかして行かせるようにと、アニエスの好物のお菓子を持って、ご機嫌伺いをさせられるくらいだ。

 そんなことが何度も続けば、たぶんこの変わり者のお嬢様の「もしも」というのは、この皇太子から逃げるための「もしも」なのかもしれないと、勘のいいシグルドは思うようになった。

 そうなれば逃走ルート確保のために崖から飛び降りるとか、湖を泳ぐとかいう発想もできなくはない。現実的にかなりワイルドで無茶な逃走ルートだけれども。

 パンを魔法で作るという発想も、食糧確保のためには必要なのかもしれない。最終的にアニエスは「小麦を種から成長させて小麦粉にしてパンにするより、苺を成長させたらそのまま食べれるじゃない!」と何か真理にたどりついていたようだし。

 結論として、皇太子からアニエスは逃げたいんだろう。それが一番しっくりくる理由のように見えた。アニエス本人にも確かめたくはあったけれど、空気が読める男のシグルドは野暮なことを聞くのはやめた。

 その代わり。


「お嬢様、苺より林檎のほうが食べごたえありますよ」


「お嬢様、崖から飛び降りるよりも地形の把握をして撹乱したほうが得策では?」


「お嬢様、魚にならずとも人間は泳げます」


 アニエスの望みを少しずつ叶える手伝いをした。

 どうしてそんなことをするのかと言われれば、ただただ、シグルドがアニエスのしたいことをさせてあげたいと思ったからだ。

 それに、もし。

 本当にアニエスが皇太子から逃げたいと思っているのなら。

 自分が連れ出してやりたかった。

 アニエスはシグルドの恩人で、ただ一人の主人。

 それだけじゃなくて、手のかかる妹のようで、目を離すことのできない、大切な人。

 その大切という想いは大人になるにつれて、大きくなっていく。

 その上、シグルドにとって都合のいいことに、成長するにつれて、アニエスは段々と孤立していくようになった。


 幼い頃は家庭教師がつけられ、もっとシグルド以外の世話役もいた。

 だけどいつしかそれらはいなくなり、王都にあるミュレーズ伯爵家の別邸で、アニエスはシグルドと下働きだけの屋敷で過ごすようになった。

 婚約者だった皇太子も、最初の頃こそ仲よさげにしていたはずなのに、今やアニエスの妹に夢中になって、夜会のエスコートすらすっぽかす始末。

 貴族からは皇太子の婚約者として蔑ろにされていると舐められて、さらにはその容姿から異双の魔女と噂された。

 普通なら侮辱するなと声を上げてもいいくらいの誹謗中傷が、アニエスの影を指差して囁かれる。

 それなのに、当の本人は涼しい顔。シグルドでも腹が立つことがしばしばあったのに、アニエス自身は「だって、私だもの」と言って、特に頓着しない。

 それだけが、シグルドは許せなかった。

 アニエスのそういうところが放っておけなかった。

 無視されるのも、体のいい魔力タンクとして見られているのも、勝手に恐れられるのも。

 誰一人として、何かにあがくアニエスをちゃんと見ないで好き放題言うのが、許せなかった。

 だけど。


「シグルド……私が寝るまで、そばにいて?」


 時折アニエスは、シグルドのベッドに潜り込んでくることがあった。

 主人であるアニエスのベッドの方が広くてふかふかのはずだ。どうしてわざわざ使用人部屋にくるのかと思いながらも、幼い彼女をそでにすることもできなくて、シグルドがベッドを明け渡すこともしばしば。

 幼い頃は親離れもできてない子なんだと仕方なく添い寝してやることも多かったし、小さなアニエスはお昼寝も多かった。

 他の使用人は眠るアニエスに近づかない。

 赤子の頃、眠っているときに何度も魔力を暴走させて、乳母を怪我させたりしたから、らしい。

 最初の頃はシグルドも正直逃げたかったくらいだ。

 だけど彼が逃げなかったのは、眠っているときに、アニエスがよくうなされているのを知ったから。

 魔力暴走とやらも悪夢のせいなのかもしれない。

 悪夢にうなされる彼女の頭を撫でてやれば、自然と落ちつく。たったそれだけのことなのに、悪夢から救ってくれる人も、彼女に寄り添ってやる人も、誰もいない。

 強がって、本音を隠すけれど、アニエスは孤独だ。

 ただ一人、契約魔法で縛ったシグルドだけが側にいる。

 アニエスの孤独を埋めてあげられるのが自分だけだと思うと、シグルドはたまらない気持ちになってしまった。

 彼女のことを思えば、良くないとは思うけれど。


 その気持ちはゆっくりと時間をかけて、アニエスに対する独占欲のようなものに変わっていく。

 いっそのこと、アニエスの世界に必要な人間は自分だけでいい。

 アニエスに寂しい思いをさせるような人間なんていらない。

 アニエスはシグルドに無償の愛をくれた。

 実の母すら、彼のことを体のいい雑用係程度にしか認識してなかったシグルドに、美味しいものを与え、寝るところを与え、楽しいことは共有し、いつだって目を輝かせて、アニエスは笑いかけてくれる。

 シグルドを一個人として対等に扱ってくれる。

 もちろん主従の壁はあるけれど、その壁があるからこそ、アニエスはシグルドに心を許してくれる。安心感を感じてくれる。そばにいてくれる。

 ずっと続けばいいと思った。

 アニエスはずっと自分のそばに。

 皇太子から逃げたいのであれば、逃してやると思った。

 一緒にいたい。

 シグルド自身がアニエスを望んでいた。

 アニエスのいない人生なんて、もう考えられないほどに。

 いつの間にか、シグルドの世界はアニエスを中心に回っていて。

 でも、アニエスは。


「シグルド、たぶん次の儀式の日に、あなたにかけた契約魔法が解けるわ。そうしたら、あなたは自由よ。好きなように生きてね」


 アニエスの従者になり、十五年。

 契約魔法がなくてもアニエスの側にいたいと思うようになっていたシグルドに、アニエスが終わりを告げた。



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