崖の上からドロップ・ダウン!(side.妹)
どうしてこうなったの。
これもそれも、全部あいつのせい。
セレーナ・ミュレーズは、爪を噛んでこの場にいない姉を恨んだ。
今のセレーナは質素な薄汚れた麻のワンピースだけを着て、同行者に借りたマントを羽織っているだけ。
夜の森の中、火を焚く同行者を見つめた。
彼はセレーナが閉じ込めらた牢屋の牢番だった。
なんの縁か、彼との接点はなかったと思っていたら、ちやほやされたくて、皇太子に連れて行ってもらった夜会で適当に振りまいた魅了スキルに充てられていた犠牲者だったらしい。
運良く彼が牢番だったおかげで、脱獄には成功した。だけど行く宛がない。
それなら隣国に亡命しましょうと誘われた。
セレーナはそれに頷いた。隣国でまた魅了スキルを使えば、自分ならまた贅沢な暮らしができると思っていた。
セレーナはこの魅了スキルを手に入れてから、一度も我慢をしたことがない。
甘い声でおねだりすれば、誰もがお願いを叶えてくれたし、目と目を合わせるだけで、異性は恋に落ちる。自分を求めて競い合うように贈り物をしてくれて、愛を囁いてくれた。
対する姉は、誰もから恐れられ、嫌われていた。
父も母も、姉を怖がった。姉の魔力を恐れ、遠くへ追いやった。その分、セレーナを可愛がってくれた。
優越感しかなかった。
同じ母から生まれたのに、この差。
可愛がられている自覚のあったセレーナは、この魅了スキルの力が開花すると、ますます増長した。
自分は世界から愛されている。
愛されていない姉は可哀想。
この優越感と隣合わせで生きてきた。
ただ、その姉が皇太子妃になると聞いたときだけ、その優越感が崩れた。それが悔しくて、悔しくて、姉の味方をことごとく奪ってみた。
ただ一人だけ、スキルを使ってもなびかない従者がいた。
セレーナはそれも欲しかったけれど、一度失敗してからは相手も警戒したのか、絶対に一人でセレーナと会おうとはしなかった。その上会っても目を合わせない徹底ぶりで、セレーナは地団駄を踏むこともしばしば。
結局、その従者も行方をくらましたし、姉は崖から落ちて死んだ。
都合よく自分がやった失態も姉のせいにできて、これからもっと楽しく遊べると思っていたのに。
セレーナは爪を噛んだ。
今目の前にいない姉を恨んで、薪を睨みつける。
お腹も空いて、汗もかいて、ここにはふかふかのベッドも、おいしいご飯も、清潔なお風呂も、なにもない。
どうして自分がこんなにも惨めな思いをしないといけないのか。
「セレーナ様、少ないですが、これを」
「……私にこれを食べろって言うの? せめて果物じゃないと食べないわ! こんな固くてポソポソしたもの食べれない!」
差し出されたのは煉瓦のような見た目をした携行食。
こんなもの、食べられるわけがない。
一度食べたけれど、口の中の水分は奪われて喉に詰まるし、味も美味しくなくて散々だった。
セレーナは忌々しげに、手渡されたものをはたき落とす。
男は目を見開き、驚いたようにセレーナを見た。
「セレーナ様……? で、ですが、食料はこれだけしかなくて」
「いらないわ」
「セレーナ様っ」
セレーナは立ち上がる。そもそも、彼についても彼女は苛ついていた。
自分を脱獄させてくれたのはよくとも、どうして逃げた先が森の中なのか。馬車で移動とか、もしくは屋敷に匿うとか、そういうこともできただろうに。なんと気の利かない男なのだろうか。
セレーナは内心で悪態をつきながら、焚き火から離れようとする。
「どちらへ行かれるのです! もう夜です、暗がりには獣がっ」
「平気よ。ここに来るまで犬一匹見なかったもの。貴方はついてこないで頂戴」
鼻で笑って、セレーナは男から離れた。
男がセレーナの言葉を聞かないわけはなく、すんなりと焚き火の前に腰を下ろす。
それを一瞥することもなく、セレーナはその場所を離れた。
むしゃくしゃしながら、暗い森の中を進む。
いっそのこと、使えないあの男をおいて、この森を出てしまおうか。牢に入れられたときとは違って、今の自分は自由の身。適当に捕まえた男に貢がせて、隣国まで逃げてしまえばいいだけの話だ。
「そうよ! あんな冴えない男より、もっといい男がいるはずよ! 頭も良くて、包容力もあって、お金もあって! 何もあの男を頼る必要なんてないんだわ!」
そうと決まれば森を出よう。
もう夜だけれど、適当な民家を見つけて戸を叩き、扉を開けてもらった瞬間にスキルを使えば、誰でもすすんでセレーナをもてなしてくれるはずだ。
良いことを思いついたと、自然と口角が上がる。
やはり自分は世界に愛されているんだ。
全てがうまく回っていく。いまはたまたま不運が重なっただけだけど、すぐにまた。あの楽しくて贅沢な生活ができるはず。
いつものように美しいドレスを着て、パーティにでて。さらには隣国の王子に見初められたりなんかして。そうしたら自分の人生は勝ち組だ。
そんな妄想を膨らませながら足を踏み出すと、ぴんっと何かに引っかかり、転びかけた。
カランコロンと、どこかで乾いた音が鳴る。
「あっ、危ないわね!? なによこれ!」
セレーナがつまづいたのは、縄だった。
足首の高さあたりに引かれ、嫌がらせのように暗闇に紛れている。
鬱憤をぶつけるかのように、セレーナはその縄を何度も踏みつけた。その度にどこかでカランコロンと何かが鳴る。
「もうっ! こんな邪魔なもの、なんでこんなところにあるのよ!」
悪態をつくセレーナは知らなかった。
これは、森に出入りする木こりが、獣よけに使っている縄だと。
そしてこの縄に引っかかる獣がいれば、近くにある木こり小屋にそれを知らせる仕組みになっていることも。
そしてその木こり小屋にいるのは、今―――
「……こんな時間に、こんな馬鹿な真似をするのは誰です?」
「!?」
気配もなく声をかけられて、セレーナは驚いた。
けれどここに人がいるのは好都合。
打算が働いたセレーナは、咄嗟に表情を作り、振り向いた。
「た、助けてください! あの、私、人さらいから逃げてきて……! 助けてくれませんか!」
「人さらい?」
声をかけたらしい人物は少し離れたところにいた。
木々の間から出てきたその人物の顔が、月明かりに照らされる。
その人物の顔を見て、セレーナは息を飲んだ。
「うそっ、シグルド……!? あなた、失踪したって……!」
「……あぁ、セレーナ様でしたか」
向こうもこちらに気がついたらしい。
セレーナは慌てて一歩、距離を取る。
「貴方、どうしてここに……!」
「貴女こそ、どうしてここに? 街の噂では捕まったはずでは?」
無表情のまま首を傾げているシグルドを、セレーナは鼻で笑った。
「私が捕まるなんて、おかしな冗談よ! お姉様の罪が私に着せられたのよ! 酷い話だわ! ねぇ、シグルドもそう思うでしょう?」
「そうですねぇ」
話す間も魅了スキルを発動するのも忘れない。
一瞬、一瞬だけでもいいから目が合えば。
セレーナはその機会をのがすまいと、じっとシグルドを見つめていたけれど。
「……お嬢様を陥れたゴミが俺の目の前にいるのって、おかしな話ですね」
ゾッ、と。
肌が粟立つ。
目なんか、合わせられない。
セレーナは、無意識のうちに更に一歩、下がった。
対するシグルドは、その一歩を詰めてくる。
「先に言っておきます。俺に色目使うのはいいですが、効くと思わないほうがいいですよ」
「ど、どうして」
「俺、なけなしのしょっぼい魔力で、自分で自分に契約魔法をかけたんで」
「……は?」
「俺の全てはお嬢様のもの。死ぬまでずっとお嬢様のもの。だから俺にそのスキルは効きません」
「っ、気が狂っているわ!」
セレーナは思わず叫んだ。
まさか姉の従者がそんなことまでして、セレーナを拒むなんて思っていなかった。
この気持ちはなんだろう。怒り? 屈辱? 口惜しい?
この従者にこうまで思われる姉が、憎らしい!
セレーナがシグルド睨みつければ、彼はゆるりと口角をあげる。
それは、セレーナが初めて見るシグルドの笑み。
月明かりの下、わずかな微笑をこぼすシグルドは、とても美しく、セレーナの目を引いた。
「俺がお嬢様に狂ってるのは今更です。……それにしても僥倖でしたね。ここで貴女に会えたのは」
「……それは、どういう意味?」
「それはもちろん―――俺の手で、お嬢様の後顧の憂いを絶てることです」
肌が粟立つよりも先に、本能的にセレーナはシグルドに背を向けた。
ここに居てはいけない。
このままいたら、セレーナは。
「逃げないでくれませんか? ひどいことはしませんよ。お嬢様が悲しみます。ちょっと手足を折って、騎士団に放り込むだけです。それとも二度と日の目が拝めないように、犯罪奴隷として奴隷商に直接売り込まれたいですか?」
「い、嫌よ! 嫌よ嫌よ嫌よ! そんなの絶っっっ対に嫌っ!!」
セレーナは走った。だが、シグルドの声はすぐ後ろで聞こえる。
「わがままですね。貴女がお嬢様にしてきたことは、これくらいじゃ償えませんよ」
「何を証拠に……!」
「皇太子妃教育のために出された皇太子妃予算は貴女のドレスに換金され、お嬢様宛に送られた贈り物は全てセレーナ様のもの。食事も食堂ではなく、一人だけ自室で冷めた食事を摂らせるよう指示したのもセレーナ様だとか。その食事に毒を盛られたこともありましたね。俺が事前に処理しましたけど。知らないと思ったら大間違いですよ」
自分の悪行を並べ立てられるけれど、セレーナは無視した。
そんなこと、当然だ。
だってセレーナは。
「私は特別な子どもだもの! お姉さまとは違うの! これが格の差っていうやつなのよ!」
そう叫びながらセレーナは走る。
なんとかシグルドをまきたいのに、なかなかシグルドを振り切ることができない。
「そろそろ足を止めませんか? このまま走ると危ないですよ」
「来るな来るな来るなぁああっ!」
振り向けば余裕の表情で追いついてくるシグルド。所詮は男女の体格差もあり、日頃からまともに運動もしていないセレーナと比べたら、仮にもアニエスの従者としてそれなりに鍛えていたシグルドの脚力とは雲泥の差があった。
けれど、そのシグルドが不意に足を止める。
ここぞとばかりに、セレーナは真っ直ぐに走り。
「え?」
ふっ、と足場がなくなった。
かくんと身体が落ちる。
どこへ?
地面が、ない。
「きゃあああああっ!!!」
ざぷん、と。
セレーナが滝壺に落ちていったのを、シグルドは崖の上から見送った。
「だから危ないと言ったでしょう」
人の話を聞かないから、こうなる。
この崖下にある滝壺はかなり深い。一部浅いところもあるから、運が良ければ助かるかもしれない。
けれどきっと、セレーナは。
「努力なさったお嬢様みたいに泳げないなら、助かりはしないですね」
シグルドはそうつぶやいて、崖に背を向けた。
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