危機再来

(も、もしかして記憶を失ってる……!?)


 目の前で首を傾げる愛好を見て、俺はそう考えざるを得なかった。

 俺は昨日、愛好に対して俺が萌園アリスであることをカミングアウトした。

 しかし今日の愛好はまるでそんなことを綺麗さっぱり忘れたような言動をしている。

 俺がカミングアウトする前と同じ行動だ。いや、以前よりも悪化しているかもしれない。

 そういえば、今日の朝もどこか上の空で変な言葉を呟いていた。

 ショックで記憶を失ったのか……いや、十分に可能性はある。

 昔、漫画か何かで人は強い衝撃を受けすぎると一時的に記憶を失うって見た気がする。


「あ、愛好……あのね」

「?」


 俺は愛好にもう一度俺が三河理太郎であることをカミングアウトしようとして……口を噤んだ。

 衝撃で記憶を失ってるのだとしたら、もう一度同じくらいの衝撃を与えたらどうなるのかさっぱり分からなかったからだ。

 とにかく、記憶を失ってる以上もう一度カミングアウトするわけにはいかない。


「どうしたのアリスちゃん。もっと食べて、はいあーん♡」

「あ、あーん……」


 どうしたものか、と俺は考えながら愛好から差し出されたプチトマトを食べる。


「美味しい?」

「美味しいです……」

「よかった。ほら、あーん♡」


 また唐揚げが目の前に差し出される。

 目の前の状況に悩みながら食べる俺。


「今度はこの朱肉に指をつけて……」

「はい……」

「で、ここに指紋を……」

「……ん?」


 どう考えてもおかしな単語が聞こえてきたので俺は我に返る。

 愛好の方を見てみれば、俺の腕を両手で掴んで紙に朱肉につけた親指を近づけているところだった。

 その紙には何やら文章が書いてあって、俺はそれを心の中で読み上げる。

 えー、なになに? 『三河理太郎は性別変更手術に同意する』、と……。

 なるほどなるほど。つまり俺がこれに指紋を押したら、性別変更手術に同意したことになるんだな。


「ちょっと待てなんだそれ!?」

「どりゃぁ!!」

「おわぁっ!?」


 愛好は俺が紙に書かれた文章に気がついたことに気がついたのか、無理やりその紙に指紋を押そうとしてきた。

 俺は慌てて腕を上に持ち上げ、それを阻止する。

 指紋を押すのを回避しようとする俺と、紙に指紋を押させようとする愛好とで均衡状態に突入した。


「ちっ、気付かれたか!!」


 愛好は舌打ちをする。


「何に、指紋を……! 押させるつもり、だ……!」

「いいから、大人しくここに指紋を、押しなさい……!!」

「何のつもりだよ!」


 俺の問いかけに愛好はハッと吐き捨てるように笑う。


「なにって決まってるでしょ! あんたのをちょん切るのよ!!」


 その言葉と表情を見て、俺は確信する。


「お前、記憶を失ってなかったのか……ッ!?」

「当たり前でしょ……! くっきり鮮明に目に焼き付いたわよ! だからこそ切ってやるの!!」

「くっ……!!」


 まずい。せっかく最近ちょん切られる危機を回避したというのに、このままじゃまた切られる。

 そう危機感を抱いた俺は在らん限りの力を腕に注いだ。


 うおおおおッ!! 唸れ俺の筋肉!!


 いつもは力負けする俺だが、この時ばかりは火事場の馬鹿力が発揮されたのか徐々に持ち上がる力の方が強くなってきた。

 紙に指紋を押す直前で俺は何とか軌道を逸らすことに成功した。


 地面に親指がつく。

 俺は危機を回避したのだ。

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