2021年6月23日

 勤務終わり、バックヤードに戻ると来月のシフト表が張り出されていた。見ると週五日で希望を出していたのが、四日に減らされている。社員に理由を尋ねに行くと、ササガワさんが来月から本格的にシフトに入ることになるし、新人がまた二人入るから、少し調整することになった、何も君だけ減らしているわけではないから、と、彼の返答に特に悪びれる素振りは見られなかった。

「でも、例えばこの日とか、ササガワさんに更に新人二人も入れてて、多分仕事回らないですよ」

「そんなことないよ。この頃にはササガワさんも仕事覚えてるだろうし、それにこの新しく入るサトウくんは早稲田大学を出てて、面接した時も凄く優秀そうだったから」

 そう言いながら、半笑いで社員はシフト表のサトウと書かれたところへ指を持っていき、トントンと紙を叩いた。彼は自分が優秀な人材をリクルート出来たことを誇らしく思っているらしい。また、彼は半年前にこの店舗に回されてきたばかりで、歴の長いアルバイトのことを疎ましく思っている節があった。それで互酬的に、まだ顔も見たことないサトウという人間に若干の敵意を覚え「本当に優秀だといいんですけどね」と呟く。社員は半笑いをやめず、目を細めたままであるが、それは、やめてしまうと苛立ちが如実に顔に出てしまうからであろう。そんなニュアンスがその目尻のあたりから読み取れた。

「まあ新人についてはひとまず傍に置いても、ササガワさん、現時点で仕事覚える気配全然ないですけど」

「それは君たちの教え方が悪いんじゃないの」

「いえ、彼女のやる気がないんです」

「そうは思えないな」

「それは全然現場を見に来ないからでしょう」

 そう返すと、一寸の空白の後で、社員はこれ見よがしにため息をついた。俺だって忙しいんだよとでも言うように。

「……彼女はね、大変なんだよ。コロナでいきなり収入が減っちゃって、正直普段ならうちに来てくれるような人材ではないけど、それでもまあどうにかして生きてかなきゃならないからね。頼むから仲良くやってくれよ」

 そんなこと言われたって、俺だってシフト減らされたら生きていけないですよ、という言葉が喉元まで出かかる。が、そのまま飲み込む。吐き出したところで、惨めさ以外に得られるものは無さそうだと俺の中にある理性が判断したからだ。俺が何も言わないのを見ると、社員も何も言わずにパソコンの画面へと視線を戻した。それを以って吐き出す場は、はっきりと失われ、諦念は俺の中に永久に留まり続けることになる。それが鉛のような質量を持ち、一瞬、膝からぐにゃりと崩れ落ちていくように錯覚したが、すぐに持ち直し、そのことを悟られないよう「お先に失礼します」と挨拶をして退出する。社員からは何のレスポンスもないが、それはまたいつものことであった。

 その足で、更衣室へ向かう前に喫煙スペースに立ち寄ると、ヤマダさんが退勤せずに煙草を吸っていた。そうして俺が煙草に火を付けたタイミングで珍しく話しかけてきた。

「タバコ吸ってるとさ、コロナで死ぬ可能性が飛躍的に上がるらしいね」

 どの銘柄であれ、煙草のパッケージには、目立つ箇所に喫煙は肺がんリスクが云々という文言が書かれている。でも俺はそれを最早模様としてしか認識していない。いまの生活に、そんな先のことを心配するほどの余裕などないし、また心配してくれる大事な人もいない。

「どうしたんすか? 禁煙でもするんですか」

「まあ、シフト減らされたしなあ」

 ヤマダさんはバイトリーダーだから、シフトの作成自体は社員の仕事だがその相談を事前に受けていて、そして、

「ごめんな。俺も抗議はしたんだけどな」

と、謝ってきた。

「別にヤマダさんが謝ることじゃないですよ」

 ハハッと笑って煙を吸い、十分に肺に入れたのちに虚空に吹きかける。そうして先端の伸びてきた灰を灰皿に落とす。

「新人ばっかシフトに入れてたら業務回んないっすよって忠告したらお前らの教育がなってないんだろって逆ギレされちゃいました」

「長年働いてきた実績よりも学歴の方が信頼出来るらしいからな。ここだけの話、続くようなら今度入ってくる新人をリーダーとして育てたいって相談されててさ」

「それマジすか」

「でも、何が一番腹立つって、あいつら、シフトを削ったり、蔑ろにしても元いる奴らはどうせ辞めたりなんか出来ないだろうってタカを括ってるんだよ」ヤマダさんは続けて言った。「そして、俺に関してはその通りなのが情け無いよホント……」

 俺はそれに対して何も上手い返答を思いつくことが出来ない。

「そうっすね……」

 それきり、続く言葉はなくて場は沈黙に支配される。気まずさを感じて、でもスマートフォンを取り出すのも何となく失礼な気がし、それで煙草のパッケージの文面を漫然と眺める。眺めていると、息苦しさの原因は確かにこの煙であるような気がしてくる。息苦しくなることが分かっていても、辞められない。辞める術を知らないのだからしょうがない。

 結局、以降会話は何もなかった。ヤマダさんは灰皿の穴にすっかり短くなった吸い殻を落とすと、

「雨降るっぽいから早く帰った方がいいよ」

と言って、喫煙スペースを後にした。朝の予報では夜まで降らないとあったが、確かに空一面に雲が重く垂れ込めており、空気が生暖かい。そうして俺は自転車で来ていたから早く帰った方が良かったのだが、それでも直ぐにはその場から動く気力が湧かず、実際に雨粒がぽつりと降り始めて漸く我に返り、帰路についた。

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