2021年6月22日

 所定の三十分前にアルバイト先に着くと、二分で制服に着替え、まだ誰も来ていないバックヤードで前日夜の業務日報を読む。昨夜はクレーム対応が一件あったらしい。読み終えると今度は新しいキャンペーンに関連するクーポンの処理について、マニュアルを見ながら軽く復習する。そのうちに朝番のバイトリーダーのヤマダさんが出勤してくる。

「おはよう。相変わらず早いね」

「昨日夜にまた一件クレームあったらしいですね」

「そうなんだ。最近多いな」

「まあ、大した内容ではないですが」

 ヤマダさんに誘われて、非常口横の喫煙スペースへと向かう。でも、そこで特にお互い会話を交わすことはなく、黙々とそれぞれの煙草を吸う。ヤマダさんが吸っているのはハイライトという銘柄で、タール17mgの、所謂きつい煙草である。以前ヤマダさんにハイライトきつくないっすか?と尋ねてみた時、他のだと吸った気がしないという言葉が返ってきた。それを聞いた時、自分のことは棚に上げて、喫煙者のことを何だかとても哀れな存在に感じた。

 バックヤードに戻ると、ササガワさんを除いた今日の朝番シフトの人たちも出勤して来ている。そうして業務開始の十分くらい前から、軽い打ち合わせのようなものを行う。五分前になって漸くササガワさんは出勤して来る。ササガワさんはそれからダラダラと五分かけて制服に着替える。彼女はこのアルバイトのことを、どう好意的に解釈しても、舐めきっていた。彼女は半月前に入ってきた新人である。以前は国際線のCAをやっていたらしい。CAになるにはまず大学や専門学校等を卒業している必要があって、英語は無論、加えて何ヵ国語かを話せることが望ましく、更に入社に際しての面接等の倍率が数十倍はあるらしい。これらはインターネットで調べた情報で、彼女から直接訊いたものではなかったが、きっと概ね正しいのだろう。だから彼女は、そんな自分がこんなところで働く羽目になっている現状が許せないのである。そしてそれを隠そうとしない。例えば、シフトの十分前から打ち合わせを行うから、十五分前には来て欲しいとヤマダさんらがやんわり忠告すると、それって業務命令ですか?と語気を荒げる。レジの簡単な精算処理すら中々覚えない。畢竟、元々いた人間は彼女のことを腫れ物のように扱わざるを得なくなる。まだ半月しか経っていないが、最早誰も彼女に仕事を教えたがらないから、彼女はシフトに入っている間、只管棚の整理とかをやっていることになる。

「棚の整理、終わりました」

「お疲れ様です。じゃあ今度はあっちの棚綺麗にしてもらっていいかな」

と、言いながら、遠目に見ても大して散らかっていないことが分かる棚の方を指し示す。

「分かりました」

 それでも、ササガワさんはシフト上では勿論一人にカウントされている。昼前になって店が混み合ってくると手が回らなくなる。実際に仕事が出来なかったとしても、それを察して、レジの応援等に回ろうとする素振りをほんの少しでも見せれば、まだ組織の一員として辛うじて受け入れられるのだが、彼女は敢えて周りを見回そうとせず、目の前の棚のミリ単位の商品のズレの整理に没頭しているふりをする。客が見かねて彼女の肩を叩き、

「なあレジやってもらえない?」

と促しても、彼女は客の方を冷めた目で一瞥だけし、何も言わずにまた作業を再開するのである。

 そんな調子だから、彼女はシフトの枠を一つ潰すばかりか、しばしばクレーム対応という余計な仕事まで増やす。

 彼女がこの仕事を舐めているのと同じように、俺らは俺らで彼女のことを全然使い物にならないと裏で馬鹿にする。その瞬間、彼女に対して向けられている苛立ちは確かに本物である。しかし、元CAという肩書きを持った人間を腐す行為に、やはり一種の愉悦が灯っていることは否定出来ない。

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