三話 ラノベ作家を目指す切っ掛け
それからラノケンメンバー達は一緒に下校したが、誰しもが無言だった。前の時のようにワクドナルドに寄ることもなく、帰りの挨拶ぐらいの一言しか聞こえなかった。
そして電車に乗った時には座席で会話もなく、書也、幽美が愛を挟むようにして座るだけだった。
『岩月……岩月……岩月……』
岩月駅到着の乗務員男性の低い声のアナウンスが流れ、幽美が立ち上がる。
「書也、愛をお願い……でも、泣かしたらぶっ殺すから」
幽美が顔を近づけ、呪いの人形みたいな瞳で見られ、書也は思わず身を震わした。
「泣かしはしないですよ……あとは帰るだけですし、愛と仲悪いように見えます?」
苦笑いする書也に幽美は意外そうな顔をする。
「そうだよ幽美ちゃん。書也君とは喧嘩しないよ」
愛は笑顔で言う。
「そう……書也はいろいろな意味で、愛に危ないと思う。仲が良いだけに喧嘩したり、破局することだってある」
幽美はそう言って、素早く書也の毛の一本を抜いた。
「いたっ!? 何するんですか!?」
「お呪いをかけてあげる……どう転ぶかは貴方たち次第だし……破局するか仲良くなるかは五分五分……どっちに転んでも愛は私のもの……ふふっ……」
発射メロディーが鳴り響き、幽美は逃げるようにドアを抜けると、笑みを浮かべて藁人形に書也の髪の一本を入れた。
「んっ?」
列車のドアが閉まると、幽美の身体から陽炎のような黒い煙のような物が立ち上がったように見えた。
『きひひひっ!?』
それは不気味な幽美の笑い声にも、今乗っている列車のスキール音にも聞こえた。
「んんっ!? 気のせいか?」
書也は何度も目を擦り、幽美が居た場所を確認したが、いつの間にかその姿を見失っていた。
「どうしたの書也君?」
「幽美の姿が……いや、なんでもない」
しばらくして、書也の最寄りの粕壁駅に到着すると、愛と共に乗り換えの列車を待った。
「書也君まで待たなくて良かったのに……」
「見送りぐらいいいだろ」
急行列車が停車してドアが開くと、愛は何か嬉しそうに兎のように跳ね、乗車した。
「じゃあな愛……気を落とさずにプロットを書こうな」
ドア付近で、踊るように振り返る愛に書也は言った。
「大丈夫……そんなに気にしてはいないから」
その時だった、発車メロディーと共に駅員のホイッスルが鳴り響いた。咄嗟に書也はバックし、ドアから離れようとした時、何かに押された。
「邪魔だ!」
長髪を紫色に染めた柄の悪そうな男が書也を押し倒した。
「書也君!?」
列車内に押し倒されて前のめりに倒れた書也を愛が駆け寄り、助け起こす。だが、既にドアは閉まり、列車は発車していた。
『でさ……あいつが女とやったって自慢してたの』
『うっそー!? マジ!?』
さっきの柄の悪い長髪男が悪びれもせず、化粧濃いめの日焼けしたギャルを連れ、大きな声で列車内を移動していく。
「大丈夫、書也君? 酷い人達だね」
「ああ、大丈夫だけど……この列車、急行だよな? 一駅飛ばして東部(とうぶ)動物(どうぶつ)公園(こうえん)駅まで停車しないだろ確か……」
書也は溜息をついて、近くの座席に座る。愛はなぜか嬉しそうに隣の席に座った。
「乗りかかった船じゃなくて……乗りかかった列車だし、このままわたしの最寄り駅の椙戸高野台まで行こうよ。万が一に帰りの列車が動かなくなったら、わたしの家に泊めてあげるよ。にひひっ!?」
嘘か真か愛は悪戯する子供のように言って、笑った。
「椙戸高野台までならいいが……と、泊まるのは無しだ!? こんな夜中に押しかけたら迷惑だろ!?」
書也は頬を染め、恥ずかしそうに言う。
「迷惑なんかじゃないよ。お父さんは早くに亡くなってるし、お母さんは今日、天然温泉歌の湯に入りに行くって言ってたから、今日は遅くまで帰ってこないよ。むしろ書也君が泊まってくれるなら、寂しくないかな」
愛は書也の腕に抱き付いて言った。
「お父さん、亡くなってるんだな……」
「うん、仕事中にお父さんが乗っていた軽トラックと大型トラックの正面衝突で……子供の時にわたしもお父さんの隣に乗っていたみたいなんだけど……不思議なくらい全く覚えてないの。その時に頭を強く打って失読症になったみたいなんだ」
愛は明るく振る舞っているように見えた。
「辛いよな……お父さんがいないのは……」
「そうでもないよ……お父さんが亡くなったのは子供の時だし、もう割り切ってるかな。でも、泊まりに来て慰めてくれるなら、大歓迎だよ」
冗談のように笑って言う愛に書也は思わず呆れ顔になる。
「いくら急行でも……準急や急行で戻って、粕壁駅なら十分だ。泊まるほどじゃない」
「そっか……残念だね。泊まってくれると思ったのに」
愛は本当に残念そうに言う。その言葉を最後に書也も愛も沈黙を続けた。
「椙戸高野台――椙戸高野台――」
そしていつの間に東部動物公園は過ぎていたのか、愛の最寄りの駅に着いてしまっていた。書也と愛が椙戸高野台駅に下車すると、無言のまま一緒にエスカレーターに乗った。田舎の駅のせいか人も数人程度すれ違う程度で、静かに感じた。
「じゃあ、俺はこれで……」
改札前付近で書也が手を振ると、愛はなぜか少し寂しそうな表情をしていた。
「うん、じゃあね書也君」
愛が手を振り、書也が踵を返そうとした時だった。
『次の東部日光線の急行列車ですが……トラックが踏切内に立ち入った為……発車を見送っています……トラックの立ち退きが確認され次第、発車時刻をお知らせします。お急ぎの方は最寄りの交通機関をご利用ください』
駅のアナウンスが流れ、書也は驚愕の表情で愛を見る。
「愛、粕壁駅行のバスはあるかな?」
「……無いかな」
愛は苦笑いする。
「くそっ……歩いて帰るか……電車を待つか……」
愛は駆け寄り、右往左往する書也のその腕を掴んでいた。
「せっかくだし、わたしの家においでよ」
「……じゃあ……よろしくお願いします」
「やったぁ! それじゃあ、さっそく買い物に行こう!」
「ああ……」
愛はスキップして、改札機にスマホをかざし、通った。外は日が沈み、夜を迎えていた。
二十四時間営業のスーパー、ビッグビー。埼玉のスーパーではメジャーで、大抵の物は安く手に入るが……カートがいっぱいになる光景はあまり見た事がない。
「買い物するとは聞いていたが……愛の家は大家族なのか?」
愛はドサドサとカップラーメン、菓子パン、惣菜パン、おにぎり、サンドイッチ、袋入りのクッキー、袋入りのチョコレート菓子、ポテトチップス、せんべいなどの数種類の味を幾つか自分が押していたカートに入れていた。
「これはね。平日の昼間に働いてくれるヘルパーさんの分だよ」
愛はスマホのメモを見ながら、缶コーヒーの段ボール一箱とお茶のペットボトルの段ボール一箱を今度は書也が押していたカートに入れていた。
「料理の材料は買わなくていいのか?」
「料理の材料は昨日、買ったから揃っているかな? 書也君は何が好き?」
愛はカートを押して、惣菜コーナーの方に向かう。
「いや、弁当ぐらい自分で買うよ。おっ、安いの結構ある」
書也は財布の中身を確認した後、売れ残っていた中で一番安くなっていた三十円引きの鶏から弁当をカートに入れた。
「遠慮しないで……今日は料理を作る時間がないから、惣菜になっちゃうけど……お母さんの奢りだよ」
愛はそう言ってスマホを操作し、レインチャットで母親とやり取りをし、書也の鶏から弁当を自分のカートに入れ直していた。その後、愛は揚げ物、煮物、サラダ、たこ焼き、お好み焼き、焼きそばなどをばんばんカートに入れていく。
愛はそうしてある程度の物をカートに入れると、レジに並んだ。愛はレジの店員に封筒に入った一万円札で会計し、お釣りとレシートを封筒に入れていた。
「ごめんね書也君、持ってもらって」
愛の両手には買った品物でパンパンになったレジ袋を持っている。
「はぁはぁはぁ……いや、なんのこれしき……はぁはぁはぁ……」
書也は息を切らせながら、缶コーヒーとペットボトルの段ボールをやっとの思いで愛の自転車の荷台に乗せていた。
「愛ちゃん、今からお帰りかい?」
軽トラックに乗っていた坊主頭の中年男性が運転席の窓から顔を出し、愛に声をかけた。
「うん。みんなの分のおやつと飲み物を買ってたところだよ」
「いつもありがとね愛ちゃん。良かったら、その重い物だけでも持っていくよ」
坊主頭の中年は自転車の荷台の段ボール箱に視線を注ぐ。
「悪いよー。だって助六さん、農場から帰ってきたばかりでしょ?」
「こっからだったら五分もかからねぇべ? いつもの休憩所の冷蔵庫の横に置けばいいかね?」
助六は軽トラックから降りると、愛の自転車に乗っていた重い二箱の段ボールを軽々と持ち上げると、素早い動きで助手席に乗せていた。
「ありがとう助六さん、助かったよ。重いと自転車のバランス崩しちゃうからね」
「あははっ!? ちげえねぇ。荷物が軽くなったんだし、そこの隣の彼氏さんとゆっくり帰りな」
助六は書也を見て笑う。
「いやだなぇ助六さん。彼氏なんかじゃないよ。ただの友達です」
少し愛は頬を染め、誤魔化すように微笑し、招き猫のように右手を動かした。
「そういうことにしておくよ。牛舎の搾乳は終わってるから、糞掃除だけで充分だよ」
「ありがとう助六さん」
愛が笑顔で会釈すると、助六は軽トラックを発進させ、手を振った。
「あの人は?」
「農家のヘルパーさんだよ。平日はお母さんの手伝いをしてくれてるの」
愛はビニール袋を自転車かごに入れると、自転車に乗らずに手押しで、歩き始める。
「一つ、持つよ」
「ありがとう」
書也は自転車かごに入りきらなかったぱんぱんのビニール袋を愛から受け取ると、隣で歩行する。
「そういえば農家だって聞いてたけど……酪農の方だったんだな」
「うん。モーモー、牛さん可愛いよ。書也君も好きなだけ牛さん、触っていいよ」
「お母さんは家にいないと言っていたけど……住み込みのヘルパーさんがいるのか?」
「住み込みじゃないよ。ヘルパーさんは一日、七時間程度働いてもらっているけど。休日はわたしとお母さん二人で牛さんのお世話をしているよ。わたしがいない時はヘルパーさんとお母さん。わたしとお母さんが出られない時は助六さん以外のヘルパーさんに手伝ってもらう時もあるよ」
「じゃあ、家には誰もいないのか……」
「うん、そうだね。二人きりだと書也君のミルクまで間違って絞っちゃいそう……なんちゃって!? あははっ!?」
頬を真っ赤にし、片手をぶんぶんと回して言う愛。明らかにエロお嬢様の影響である。
「おい!? 大丈夫か愛? エロスの影響があるだろ?」
書也も思わず頬を染める。よく愛の言動を見れば、足を止めて片手でスマホを高速で操作し、レインチャットで誰かとやり取りしていた。
「エロスちゃんとレインチャットしてたら、書也君もいるって返信したら、この言葉を言えば盛り上がるって……」
「スナックで盛り上がる中年親父じゃないんだからさ……エロス先輩の言葉を真に受けない方がいいぞ」
「そうだね」
愛は恥かしそうに答えた。
愛の家とその牛舎に辿り着いたのは十五分ぐらいだっただろうか。モーモ―と牛の鳴き声が聞こえ、藁と糞の匂いが風で漂ってきた。外灯に照らされた二階建ての家と、明りが点いた牛舎が見えてくる。牛舎は妙な小さな塔が付き、木造平屋を長くしたような外観で、広さだけなら学校の体育館ぐらいありそうであった。愛が牛舎のドアを開け、スイッチを点けると、垂れ下がる数本の裸電球が周囲を照らした。草刈り機やスコップ、フォーク、妙な機械や見知らぬ道具が隅に置かれていた。
「ごめんね汚い所で」
「いや、急にお邪魔してる訳だし、別に気にしないよ」
中央の扉が無い出入口から牛達が牧草を食べている姿が見える。
「こっちだよ書也君、そっちに行ったらモーモーさんに食材を食べられちゃう」
「ああ、分かった」
愛が中央の扉が無い出入口の横にあったドアに入る。愛と共にビニール袋を持って部屋に入ると、微かに煙草の匂いと獣臭さがあった。愛が壁掛けのリモコンスイッチを押すと、シーリングライトが部屋を照らした。部屋は六畳で、大きいテーブルを囲むようにソフェアが置かれ、壁にはエアコン、奥にはテレビ台と二十七インチの液晶テレビ、冷蔵庫、戸棚、電子レンジ、給湯ポッド、水道付きのシンク、デスクには古そうなパソコンとプリンター、電話機が置かれていた。事務所兼休憩所といったところだろうか? 大きなテーブルには煙草の灰皿とライターが数本置かれている。
「助六さん、ちゃんとお茶と缶コーヒーの段ボールを置いてくれたんだ」
愛は缶コーヒーとお茶のペットボトルの段ボールを開けると、幾つか冷蔵庫に入れていく。
「誰か煙草を吸うのか?」
「ヘルパーさんがよく吸ってるかな。家では煙草を吸う人がいないから、分煙も兼ねて、ヘルパーさんの休憩所にしてるの。お父さんがいた時は事務所にしてたんだけどね」
愛は戸棚や冷蔵庫に買ってきたお菓子や飲み物を手際よく入れていく。
「書也君、ブレザー脱いで。臭くなっちゃうよ」
「ああ」
書也はブレザーを脱ぎ、ワイシャツ姿になった。愛にブレザーを渡すと、デスク裏のクローゼットのハンガーにかけてくれた。
「ここにかけておくね」
「ありがとう。それと、買ってきた惣菜はどうするんだ?」
消費期限が短そうな惣菜は明らかに一人、二人の量ではない。他のヘルパーさんが食べに来るのだろうか?
「テーブルに置いて、そこで食べるから」
書也がビニール袋から惣菜を取り出し、並べていくと、愛はさらに戸棚や冷蔵庫からカップラーメンや冷えた二リットルサイズのジュース、紙コップ、割り箸を置き、ポテチなど菓子類の袋まで開けていく。スーパーで買ったばかりの惣菜パン、おにぎり、サンドイッチまで大きなテーブルを埋め尽くさんばかりの物凄い食料の数が並んだ。
「あと、書也君の鶏から弁当も置いておくね。書也君もテーブルに置いてあるものは食べていいからね」
「いくらなんでも多すぎだろ!?」
「そうかな? 助六さんもこれぐらいたくさん食べるよ」
愛はリモコンでテレビを点け、チャンネルを変える。その番組は見た事はないが、漫才とかのお笑い番組のようだ。愛はその番組を見ながら、テーブルから取ったおにぎりの袋を開いて食べ始めた。おにぎりを食べ尽くすと、カップラーメンにお湯を注いで、蓋を取り、電子レンジで温め始めた。
「おい、電子レンジに入れて大丈夫か!? 爆発しないか!?」
愛の大胆な行動に書也が思わず電子レンジに駆け寄る。
「プラスチックの物は駄目だけど、紙製の物は大丈夫だよ。お湯を目分量より少し少なめに入れて、一分温めると、カップラーメンが時短でできるんだよ。あっ!? 書也君も電子レンジ使うよね?」
一分が経過し、電子レンジのメロディーが鳴ると、愛はカップラーメンを取り出した。カップラーメンの紙コップは焦げたり、変形したりはしていなかった。
「ああ、使わせてもらおうかな」
書也は鶏から弁当を電子レンジで温めると、愛はソファに座り、カップラーメンをふーふーしながら割り箸で食べ始めている。
「はふ、はふ、はふ、書也君も温め終わる前に何か食べなよ」
愛はそう言って、テーブルに置かれたカレーパンを差し出した。
「ああ、じゃあ、いただきます」
書也は渡されたカレーパンを受け取り、袋を開けて頬張る。今更ながら手料理と愛の部屋に入れる事を少し期待していただけに涙が出てくる。
「どうしたの書也君? 涙出てるよ」
「カレーが少し辛かっただけだから……」
書也は言って、ソファに置いてあったティッシュを取り、流れる涙を拭いた。
「そのカレーパン、そんなに辛いのだったかな?」
愛は首を傾げ、いつの間にかカップラーメンを食べ終わっていたのか、サンドイッチを口に入れ、カップラーメンの汁をお茶のようにすすっている。
「よく食べるな愛は……」
「そうかな? 普通だよ」
そう言って愛は惣菜のタコ焼きを美味しそうに笑顔で食べ始めていた。それでも、愛のこの笑顔が見れるなら、ここで過ごすのも悪くはないかもしれない。
「ふぁー。食べたー、食べたー」
愛はテーブルの食材をほとんど食べ尽くしてしまった。テーブルに置いてあるのは全て空の容器とパン、おにぎり、サンドイッチ等の袋となっている。書也も惣菜には手をつけたが、鶏から弁当と愛に渡されたカレーパン、サラダと煮物を少し摘まんで食べたぐらいだった。
「書也君、本当にそれで足りた?」
愛がペットボトルのウーロン茶を注ぎ、紙コップを書也の前のテーブルに置く。
「ああ」
書也はお腹を押さえて、こくりと頷く。愛につられて思ったより多く食べてしまった気がする。
「それじゃあ、お仕事しようかな」
愛は自分の前に置いてあったウーロン茶を一気に飲み干すと、立ち上がる。
「手伝おうか?」
「じゃあね、書也君は食べた物を片付けてくれたら嬉しいかな」
愛はデスクの引き出しから、ゴミ袋を取り出すと、書也に渡した。
「分かった」
書也はゴミ袋を受け取ると、空の容器とパン、おにぎり、サンドイッチ等の袋をゴミ袋に入れていく。その間に愛は欠伸をしたかと思うと、セーラー服とスカートを脱ぎ始め、タンクトップからブラが少し透けて見えた。タンクトップの下が折れ曲がっている為、ショーツが書也の視界に入る。
「ちょっと愛!? こんなとこで着替えるな!?」
「ん? タンクトップに萌えちゃったかな? ブラじゃないよ。んん、でも、下のこれは少し恥ずかしいかな」
愛はそう言って、頬を染めながら、さりげなくタンクトップの下を伸ばし、ショーツを隠す。
「おパンツ見えてただろ!?」
「作業着はここかな?」
愛は誤魔化すようにクローゼットからピンクの作業着とワークエプロンを取り出し、わずか三十秒で着替え終わってしまう。
「はやっ!?」
気がつけば愛は足早に休憩室から出ていった。
書也がゴミの片づけを終えると、何処からか声が聞こえてくる。
『はああああっ!?』
愛の仕事時の気合の声だろうか? それと同時に駆けているような足音が微かに聞こえる。
書也が休憩所を出て、牛舎の方に行くと、愛が牛の後ろからフォークで敷き藁と一緒に糞を押し出し、溝に落とす姿があった。
「大変そうだな。手伝おうか?」
「じゃあね。ネコを持ってきてくれる」
「猫? ああ、分かった」
書也が白黒の毛皮の猫を見つけると、抱っこして、掃除している愛の前に見せる。
「それは家の猫のニャーちゃんだね。ネコというのは手押し車の事だよ」
書也に動物の猫を見せられた愛は苦笑いする。
「手押し車? ああ、あれネコっていうのか? 俺は一輪車と呼んでたから、分からなかったな」
頭を掻く書也は慌てて、藁が積んである手押し車を押して、愛の隣に持ってくる。
「手押し車をネコで通じると思っているから、小説で書いたら誤字になっちゃうかな? 漢字にしても猫だし」
「そんな事を言ったら一輪車も体育に乗る時の方になりそうだな」
愛はその書也の言葉を聞いて微笑する。
「ふふっ……そうだね」
愛は持ってきた手押し車の藁をフォークで一気に取り出すと、綺麗になった石床に敷いていく。
「次の藁を持ってくるよ」
「ありがとう。巻き藁の束が牧場の出入り口にあるよ」
書也は牧場の出入口付近で巻き藁が積んである場所を見つける。巻き藁に刺さっていたフォークを使い、バラバラになっていた藁を手押し車に積んで、愛の所に持っていく。
「この藁でよかったか?」
「うん、ありがとう。書也君、凄いね。手押し車やフォークの使い方も分かるんだね。農作業、やった事ある?」
「いや、初めてだよ。農家の仕事をテレビで見たぐらいで、これぐらいならな」
「じゃあ、どんどん頼んじゃおうかな」
「任せろ」
書也と愛の共同作業で全ての牛舎の掃除を終えていた。
「書也君のおかげで、三十分の作業が十五分で終わったよ。ありがとう」
愛は本当に嬉しそうに言う。
「掃除だけでもわりと大変だな」
「そうでもないよ。わりと自動化されてるからね。例えば……」
愛が壁に付いたブレーカーのようなスイッチを入れると、溝の床部分が動き、汚れた藁と糞が流されていく。
「溝がベルトコンベアになっているのか!?」
「お父さんがいた時はネコで糞に入れて運んでたんだけどね」
「これは何処に運ばれるんだ」
「向こうの堆肥山の方に運ばれるよ。肥料としても売ってるんだ」
糞が全てベルトコンベアに運ばれると、愛はスイッチを止める。
「あれ? ここは掃除、大丈夫なのか? ああ……牛がいないのか」
牛の気配が感じられない牛舎の区画に気付き、書也がファームゲートの隙間を覗き見る。敷き藁は敷かれているが、餌箱に餌が全く無く、牛の姿は見えなかった。
「昨日、モーモーちゃんがお亡くなりになっちゃったんだよ!? だから牛(ぎゅう)床(しょう)は空っぽ。ジェリエットちゃんあああん!?」
愛は思い出したかのように牛がいなくなった牛床のファームゲートを開け、敷き藁に抱き付き、涙を流していた。
「名前を付けてたのか……」
本気泣きの愛に呆れ顔の書也。
「だって大切に育てたんだよ。ペットのように可愛いよ!」
書也は何を思ったのか、牛舎の牛床に入り、愛の隣の敷き藁に寝そべる。
「ちょっと書也君!? 心の準備が!?」
愛は転がり、書也から目を逸らし、顔を真っ赤にした。
「月が綺麗だな……少しちくちくするけど、藁のベッドもふかふかして気持ち良いな。ゼロ魔の才人もこんな感じで、月を見ていたのかな」
寝そべった書也が牛舎の窓から見える月を見て言った。
「書也君はさ……あの女の子に会いたいと思う?」
愛は転がり、恥ずかしながらも書也に近づき、窓の月を見上げて言った。
「あの女の子?」
「書也君がラノベ作家を目指そうと思ったきっかけになった女の子の事だよ」
書也は両目を覆って、何か考えるようにした。
「どうだろうな……今はラノベ作家を目指そうと思っているのが、復讐みたいになってるからな」
書也のその言葉を聞いて、愛は敷き藁を舞わせ、立ち上がる。
「復讐、どうして!? その女の子が何か意地悪したって言うの!?」
「別にあの女の子が悪いって訳じゃないんだ……俺が小学生の時に憧れていた悪友がいた。そいつは画竜点睛(がりゅうてんせい)っていう奴でな。絵が上手くて、そいつがノートに描いた漫画は面白くて、クラスの評判の人気者だった。それで俺も漫画を描き始めた。幼稚園児並みの下手くそな絵で、けなす奴はいたけど、点睛だけは絵の練習をする俺に漫画の描き方を教え続けてくれた。でも、いくら練習しても絵は上達しなかった……その時に図書館で会ったのが、ズッコケ三人組を勧めてくれたあの女の子だった。その本の影響でラノベ作家を目指そうと思った。だけどな点睛はラノベ作家を目指すと言った俺をけなし始めた……それ以来、点睛とは口も聞いてない。もう、あいつを見返す為にラノベ作家になってやろうとしか思っていない」
書也は言って、敷き藁をぎゅっと握り締め、ゆっくりと立ち上がり、愛を見た。どんな表情をしていたのか分からないが、愛の表情が死んだ子猫を見たようにどんどん曇っていくのが分かった。
「それじゃあ、わたしは……その女の子はお節介だったのかな? その本を渡した想いは……」
「そうは思っていないさ。でも、あの女の子に出会っていなければ、ずっと下手な絵で漫画を描き続けていただろうな。まあ、これは呪いなんだって思う……ラノベ作家を諦めてはいけないんだっていうな……」
「ラノベ作家の夢を呪いだなんて言わないでよ! わたしはそんな気持ちで書いてない! そんな風に思わせたいと思った事もないんだよ……その女の子が本を書也君に渡したのは、その本が本当に面白かったから勧めたんだと思う! その運命は決して呪いなんかじゃないんだよ!」
愛はなぜか涙を流していた。零れ落ちる涙は先ほどよりも雨のように激しいのに、表情は怒りのような、悔しいような……そんな感じに見えた。
「愛……」
「もう……亡くなったモーモーさんの事……また思い出しちゃったのかな……顔を洗ってくるよ」
愛はそう言って、書也から逃げるように牛舎を駆け抜けていった。
「愛、そんな理屈じゃなければ小説を書いていけないんだよ……そうじゃなきゃ、ラノベ作家を目指さなければ、友達をなくす事なんてなかったなんて! 思いたくもないだろ!」
書也は独り言のように言って、敷き藁に身体を倒し、横になった。
モーモーと牛の鳴き声が時折、聞こえる。それと同時にシュコシュコと空気入れを動かしたような音とポンプで吸い出すような音を足したような妙な機械音がする。
『ほらーほらー起きなさいー』
女性の甘やかすような声が聞こえ、撫でるように揺さぶられる。
――夢を見ているのだろうか? それにしては見知らぬ声とこの妙な機械音しか聞こえず、真っ暗だ。ここは自分の部屋ではなかったか……いや、確か自分は愛の自宅に行って……牛舎で愛の仕事を手伝って……」
「ここは!」
うつ伏せに寝ていた書也は四つん這いで勢いよく腰を上げると、ミルカーのホースの先端を股間に当てられていた。目の前には愛に似たグラマラスな大人の女性が書也の顔を覗き込んでいた。
「あらあら、こんな牛さんが居たかしら?」
「ちょっと待ってください!? 俺は牛じゃなくて、人間です!」
書也は四つん這いのままでは何もできず、牛のように頭を振り、拒否する。冗談か本気か、股間から本当にミルクを絞り取られかねない勢いがあった。
「あらー。じゃあ、こっちが本物の牛さんかしら? ほら、起きてー。乳絞りの時間よー」
女性はワークエプロンがはちきれんばかりの大きな乳を揺らし、愛の腰を撫でるように揺さぶると、抱き起すように四つん這いにさせ、ミルカーのホースの先端を愛の胸に押し当てた。
「んー? お母さん? 待ってね……すぐ起きるから……きゃあ!? お母さん、何やってるの!?」
「あらー。牛さんと思ったら、愛じゃないの? こんな所でいつも寝てー。牛さんと間違って、ちゅーちゅーお乳を吸うところだったわ」
「んーもう! お母さんもミルカ―使って、起こすのやめてよ! 変な夢見ちゃう!」
「愛がいけないのよ。こんな所で寝るから。風邪ひいたらどうするの?」
「ここで寝たっていいでしょ。わたしのジェリエットちゃんの悲しみは癒えないの」
愛は再び寝転がると、反抗するように藁を束にして抱いて、母から目を逸らした。
「ほら、搾乳が始まってるんだから、愛も手伝って」
「はーい」
愛はしぶしぶ立ち上がると、身体に付いた藁を払って、牛舎を駆ける。
「貴方が書也君ね。愛から話は聞いています。私は愛の母、誤植瓜(うり)花(か)です。愛が部活動ではお世話になっています」
愛の母、瓜花はそう言って頭を下げる。
「いいえ、こちらこそ」
書也は緊張しながらも、頭を下げた。
瓜花をよく見れば、乳が大きく、容姿が綺麗なせいか、二十代でも通用しそうな若作りに見える。
瓜花はくんくんと匂いを嗅ぎ、書也の顔を覗き込む。愛と何か変な関係をもっているのかと、疑われているのだろうか?
「お漬物のような匂い……敷き藁に発酵したサイレージでも混ざっていたのかしら? 書也君、お風呂沸かしてあるから、入ってきたら」
「俺、その……農作業を手伝いますよ。終わったらすぐ帰りますし……」
「駄目よー。ミルカーは素人がすぐに扱える物じゃないんだから。それよりもちゃんと匂いを取らないと、嫌われちゃうわよ」
「いや、しかしですね……」
瓜花は有無も言わさずに書也に鍵を渡していた。
「これ鍵ね。お風呂は玄関入って廊下の左側よ」
書也はワイシャツの肩部分に鼻を近づけ、匂いを嗅いだ。確かにほんのり、漬物のような匂いがした。
瓜花に言われるまま、鍵を渡された書也は家に向かっていた。家は洋風の二階建てで、緑の屋根には煙突があり、赤毛のアンの家みたいな外観だった。
鍵でドアを開けて入ると、天井のセンサーライトが点き、何処からかカモミールの匂いがした。玄関はレンガ床で、サンダルと長靴が置いてあり、棚の上には赤べこと花瓶にカモミールのドライフラワーが飾られ、壁には額縁に入った蹄鉄が飾られていた。廊下の照明もセンサーライトで、歩くと明りが点いた。床はフローリングで、歩くと少し軋んだ音がした。
「廊下の左側ね……この洗面所の所か……」
廊下を少し歩くと、左側にはドアが開いていて、洗面所が見えた。スイッチで明かりを点けると、アンティーク調の蛇口と鏡、木製の化粧台になっている。バスルームらしき引き戸を開けると、さすがに風呂まではアンティーク調ではないが、全自動給湯器のリモコンが付いており、浴槽、天井、床は綺麗に磨かれており、お湯もきちんと張ってあった。
「これはこれで凄いな」
何よりこのバスルームで驚いたのは、浴槽の横の窓であった。窓からは花壇の花が見え、チューリップ、ラベンダー、マリーゴールドなどの様々な色の花々が咲き、ハナモモの木が見事なピンク色の花を咲かせていた。
「……いい湯だった」
書也がバスルームから出た瞬間、愛の声が聞こえたと思うと、ドアが開かれていた。書也の前に可愛い牛の着ぐるみパジャマ姿の愛が目に映る。それよりもこの状況は……
「書也君、お父さんのジャージだけど使って……はうっ!? 書也君の小さいゾウさんなんだよ!?」
「愛、わああっ!? ノックぐらいしろ!? 何が小さいゾウさんなんだ!?」
ジャージを両手に持っていた愛は頬を染め、素早く後ろを向く。書也は既に見られていたが、思わず股間を両手で隠す。
「男の人のは凄い怖いイメージあったけど、書也君のゾウさんはすっごく可愛く見えたんだよ」
愛は頬を染めたまま、ちらりと後ろを振り向く。
「こっちを見るな!?」
書也は頬を染めて言う。
「あははっ!? ジャージをここに置いておくんだよ!?」
愛は見ないようにし、木製の二段のランドリーバスケットの上にジャージを置くと、慌ててドアを閉めて、バタバタと音を立て、廊下を駆けていく。
『お母さん! 書也君のが小さいゾウさんなんだよ!』
『あらー。あらー』
遠くから愛と瓜花の声が聞こえる。
「言いふらすな!」
二段のランドリーバスケットに置かれたジャージは学校で着るタイプとは違い、黒色でモダンなデザインだった。匂いを嗅ぐと、微かに森林の匂いがする。書也はそれを着て、愛と瓜花の声のする方へと向かった。
ダイニングルームは喫茶店のカウンターキッチンのようになっており、厨房では牛の着ぐるみパジャマのまま、エプロンを着けた愛がトレーに乗った料理を瓜花から受け取っていた。
「手伝おうか?」
書也が愛に話しかけると、笑顔で振り向いた。
「大丈夫だよ。書也君は座ってて……どうせなら外で食べようよ。今日はそれほど寒くないし、良い天気だよ」
「構わないけど、虫さん来ちゃうわよ。書也君、嫌がらないかしら」
「テーブルや椅子に虫除けスプレーしたから大丈夫だよ」
「あらあら、お花に虫さんが来なくなっても困るんだけど」
「今日だけ、良いでしょ?」
「仕方ないわね」
「やったぁ! 書也君、こっち来て」
書也は笑顔の愛に付いていくと、窓の方に辿り着いた。窓の先にはテラス席があり、カフェのようなお洒落な洋風なテーブルと椅子があった。
「あっ、窓を開けないといけないな」
書也が窓を開けると、愛は器用に足でサンダルを動かして履いた。
「ありがとう書也君」
愛は手早く料理をテーブルに置くと、窓付近に居た書也を抱き締め、胸部分のジャージの匂いを嗅いだ。
「お、おい!? どうした!? 変な匂いでもするのか?」
書也は頬を染め、愛を引き剥がそうとする。
「んんっ……書也君……お父さんの良い匂いがするよ」
「あらあら。愛、抱き付きごっこはお母さんの見てない所でしないと駄目よ」
後ろで料理を乗ったトレーを持ってきた瓜花が言う。その言葉を聞き、愛は離れてトマトのように頬を染めた。
「もう! お母さん、変なこと言ってないで食べよう!」
愛が瓜花の持っていた料理のトレーを受け取ると、テーブルに置いた。
しばらくして、愛と瓜花によって全ての料理が運ばれると、テーブルは様々な料理で埋め尽くされた。トレーの料理は皿にソーセージに目玉焼き、牛乳、ガラスの小鉢に入った自家製っぽいヨーグルト、大きいバスケットにはツナサンド、玉子サンド、ハムチーズサンド、野菜サンドなどが詰め込まれ、大きいサラダボウルにはシーザーサラダが山盛りに入っている。大皿にはソーセージマフィンやエッグマフィンなどがある。
「書也君、嫌いな物とかある? 男の子の好きな食べ物とか分からなくて……」
「大丈夫ですよ。お構いなく」
「でも、これで足りるかしら? 食べ盛りの子とか、どのくらい食べるか分からなくて、助六さんもこれで足りないと言うぐらいだし」
瓜花は溜息をついて言う。
「これで充分足りますよ。愛が特殊なんだと……えっ? 助六さんも!?」
助六さんは痩せている中年に見えたのだが、農家の人の消費カロリーは高いのだろうかと、考えてしまう。
「ほら、書也君もいっぱい食べないと、わたしが全部食べちゃうよ」
「よかったら召し上がってね。ほとんど自家製や貰った野菜だけれど」
お風呂あがりのせいか、喉が渇いていたので、料理より先に書也はガラスコップの牛乳を飲んでみた。牛乳は搾りたてなのか、市販のものより甘味を感じた。
「やっぱり牛乳は自家製なんですね……美味しい! 絞り立ては甘味があって美味しいです」
「わたしが絞った牛乳だからね。それにヨーグルトやサンドイッチに使ったチーズやバターも自家製だよ。あと、野菜は野原さんの農園のとこでしょ、卵は鳥島さんの養鶏場とこでしょ、ソーセージは猪田(いのだ)さんの養豚場だったかな?」
愛がテーブルから身を乗り出し、自慢げに言う。
「へぇー。他の農家さんとも交流があるんだな」
「こういう田舎町だから、お互いの作った農産物を分けたり、情報交換したりするのよ」
書也はフォークを使い、自分の皿の独特な色のソーセージを食べてみる。肉は濃厚な味わいで香辛料の辛味が利いており、なかなか美味しい。さらに目玉焼きも食べてみる。目玉焼きは単純に味塩コショウが振ってあるだけだが、鶏卵は新鮮なせいか、黄身と白身はまろやかで、これも美味しい。
「どれも新鮮で美味しいです」
「お口に合って良かったわ」
瓜花は書也の顔を見て、満面な笑顔を浮かべた。
「ご馳走様です」
朝から腹がはち切れんばかりに食べてしまった。
「あら、書也君は意外と小食なのね」
自分の皿だけはなんとか食べ終わったが、自由に手をつけていいと思われる大きいバスケットのサンドイッチや大皿のマフィンは未だに残っている。しかし、それすらも愛は手を伸ばし、残り数個の料理となっている。
「お皿、片づけますね」
書也は空のお皿を重ね、立ち上がる。
「あらあら、それぐらいやるのにー」
「片付けぐらいはやらせてください」
「それじゃあ、シンクに置いてください」
「はい」
書也が料理の皿と一緒にトレーをシンクに置いた後、マントルピースの上に絵画と大きなポスターが飾ってあるのが見えた。ポスターは竜と男の子が抱き合ったイラストで、もう一つはキャンパスに油絵具で描かれた絵画のようであった。絵画の方は麦藁帽子の瓜花が手で牛の乳絞りをしている姿であった。
「あのポスターは出版しているお母さんの絵本の表紙なんだよ。《竜と少年》っていうタイトルなんだけど、タイトルロゴ無しのが欲しいって、加工して特大ポスターを出版社から貰ってきたんだって」
愛が書也と同じようにポスターを見上げて言う。
「瓜花さんは絵本作家だったのか!? じゃあ、あの絵も……」
「あれはわたしが描いたものだよ。お母さんのポスターと比べるとだいぶ下手なのにあんなの飾って、何が楽しいのかな」
愛は不服そうに言う。
「あれが下手って、嘘だろ? プロ並みじゃないか……」
書也は呆然とした表情で言う。瓜花のポスターのイラストも確かに上手いが、愛の絵画は美術館に並んでいても、おかしくない画力に思えた。
「そ、そうかな!? わたし、そんなに絵は上手くないの!? 趣味で描く程度だし!?」
愛は照れているのか、指で頭を掻いて、恥ずかしそうにしていた。
「どうして……この画力で画家やイラストレーターを目指さないんだ」
「嫌だなぁ書也君。これは趣味で描いてるものだし、わたしが目指したいのはラノベ作家なんだよ」
「これが趣味? この画力で漫画を描いたら……愛の物語を表現できる訳だろ?」
書也は下を向いたまま言う。
「えっ? 漫画? そんなこと考えた事なかったよ。わたしには興味ないし、お母さんみたいに絵本を描きたいと思った事もなかったよ」
「そうか……」
「書也君、見せたいものがあるんだけど……いいかな?」
愛は恥かしそうに言う。
「見せたいもの?」
「えと、休憩所にパソコン忘れてきちゃった!? 二階のわたしの部屋で待っててよ」
愛が慌てて廊下を駆け、ドアを開けて外に出ていく。
「二階か……」
書也は力なく階段を上がっていた。二階にはアンティークな木製ドアが四つほどあった。丸窓が付いたドアは恐らくはトイレだと思うが、愛の部屋は見当がつかない。
書也は開きかけのドアを見つけ、そこを開いて覗いて見る。どうやら当たりで、愛の部屋のようだ。白い壁紙はピンクの花柄、それに合わせた白いベッドと花柄の寝具、備え付けのクローゼット、アンティークな机が置かれ、その隣には本棚とカラーボックスが並んでいる。家電はエアコン、二十四インチのテレビ、テレビ台の中には録画レコーダーがある。本棚の本はラノベや参考書、小学生の国語の教科書がなぜか入っている。カラーボックスの小物類は牛のぬいぐるみにラジオ機器、小学生で使うような絵の具ケースやコップに入った様々な絵筆や鉛筆、カラーサインペン、スケッチブック、らくがき帖などが詰め込まれている。そのカラーボックスの上にはキャンバスが何枚も重なっている。
「これで絵描きが趣味だって言うのかよ……」
壁にはキャンバスの油絵や画用紙の鉛筆画や水彩画が飾られ、王女を守る勇者、半人妖狐の嫁入りの行列、空飛ぶ浮島や飛空艇、夜の焚火で原始人の少女が骨付き肉を食べている姿など、どれも物語を意識している作品に見えた。
「こんなの俺に見せて……何を伝えたいって言うんだよ」
その時、牛のぬいぐるみがカラーボックスから落ち、隠されていたかのように一冊の本が現れた。ズッコケ三人組のタイトルの背表紙は黄色が色あせて、白に変色しかけている。
「この本……愛も持っていたのか……」
本を開いてみる。嫌な予感がした。女の子が持っていた本は図書館の本に間違いなかったし、人気作の児童文学書は様々な人が持っている。だが、最後のページにポールペンで書いてたような星のマークのいたずら書きを見つけ、過去に書也が読んだ物と同じものだと分かった。
「あーあ……見つけちゃったんだね書也君」
愛が魂の抜けた人形のような瞳で、牛のぬいぐるみを拾うと、カラーボックスに戻していた。
「愛、これはどういうことだよ!」
状況が理解できずに書也は叫ぶように言った。
「わたしが書也君にその本を勧めたって事だよ。この本は傷みが酷いからって、捨てられるはずだったんだけど、図書館の人に頼んで貰ったんだよ」
悲しく笑って言う愛に書也は頭を押さえた。
「そんな偶然あるのか……いや、そんな事はどうだっていい! この絵は何なんだよ! ラノベ作家を目指すって言ってたのに……こんなの趣味の範疇を超えてるだろ!」
書也は怒ったように声を上げ続ける。まるで裏切られた気分だった。書也が憧れた絵の才能を愛が持っており、物語を絵で自由に表現できるのだ。これほど悔しい事はなかった。
「言ったでしょ書也君。わたしには絵に興味はないって……」
うつむいて言う愛に書也は絶望の表情を返す。
「これだけの才能があって嘘だろお前……上手い絵の才能を捨てて、あんな誤字脱字だらけの文章でラノベ作家を目指すって言うのかよ!」
「それでもわたしはラノベ作家になりたいの! イラストレーターや絵本作家でもなく、ライトノベルを書き続ける作家になりたいんだよ! 憧れるお母さんの綺麗な文章のように、詩のように、歌詞のように、朗読劇のように、文字を読んで想像させて、感動させたり、笑わせたり、悲しませたり、ドキドキさせたり、共感させたり、冒険したくなったり、誰かが読んで生きる希望を持たせたりする文章を書きたいの!」
大人しかった愛が嘘のように叫んだ。
「わかんねぇよ本当に……こんなプロレベルのイラストを描けるのに……俺が欲しかった才能を持っているのに……それを捨てるって言うのかよ……あんな本を勧めておいて!」
「違うの書也君……わたしは……」
「ああ、もう! こんな才能を無駄にする奴だなんて! お前と付き合わなければよかった!」
書也は愛の部屋のドアを閉め、階段を足早に降りていた。
「書也君、クッキー焼いたんだけど、どうかしら?」
エプロン姿の瓜花が廊下から声をかけるが、書也は会釈し、玄関で靴を履いた。
「お邪魔しました」
「あら、そう。せっかくクッキー焼いたのに……」
「すいません……急いでるので……」
書也は再び会釈すると、ドアを開けて外に出ていた。
書也は砂利道をわけも分からずに駆けていた。
「どうして……こうなっちまうんだ!」
絵の才能の嫉妬心から愛に八つ当たりしたのは自分でも自覚している。
その時、スマホの振動と共におどろおどろしい三味線のような音が鳴り響いたかと思うと、激しいギターのBGMが爆音で流れる。
「わっ!? なんだこれ!? こんな着信音にした覚えはないぞ!? この音楽……虚構推理のOP曲か」
スマホがハッキングされているのではと疑ったが、選曲がアニメ化したラノベなので、思い切って着信に出る。
「すいません、ここにおひいさまは居ません」
『……私、メリーさん……』
何処かで聞き覚えのある声。なぜかその声がシンクロしているような、山彦のように反響しているような、声が近づいているような錯覚さえ覚えた。
「えっ?」
『今……あなたの後ろにいるの!』
振り向くと、紅い瞳の少女が顔を近づけた。
「ぎゃあああっ!? おひいさま助けて!?」
「私よ馬鹿……」
よく見れば、私服なのか黒いゴスロリチックなワンピースを着た幽美の姿があった。
「どうして幽美先輩がここに!? まさか付けてきたんじゃ!?」
「昨日ニュースで踏切にトラックが進入して、粕壁駅行きの列車が遅延してた。まさかとは思って愛の家に尋ねようとしたら書也と……こんな事になるとは思ってもみなかった」
幽美はそう言って、深刻そうな顔をする。
「昨日、まさか変な呪いでもかけました? それとも俺のことを心配してくれたとかじゃないですよね?」
「違う書也じゃない……愛の事を心配しているに決まっている。まさかあのまま、愛の家にお泊りでチョメチョメしているなんて!?」
幽美は青ざめた表情で両手で頭を押さえる。
「お泊りはしましたが……チョメチョメはしてません!」
恥ずかしそうに言う書也に幽美はジト目で見る。
「愛とチョメチョメしてたら……ひゅっと刺してひねって、ちんこもぐ! もぐ! してるところ」
懐から鞘付きのブドウ模様の柄の小型ナイフを出し、その右手でナイフを突いてひねる動作をしている。そしてナイフを突いてからの右手で木の実でももぐような動作をしている。
「ナイフなんて振り回さないでくださいよ!? 本当に危ないです!?」
後ずさる書也に幽美は獲物を見るような目を向ける。
「大丈夫……鋭利な刃が無いペーパーナイフ。護身用の脅しとして持っているだけ……それよりその……ちょっと格好つけたような中年親父が朝のランニングに着るようなジャージは何?」
書也は今更ながら気付き「あっ」となった。愛からジャージを借りたままだった。それどころか、制服のブレザーやワイシャツ、ズボン、カバンまでもが置いたままだった。書也が気まずそうに何も言えずにいると、愛は溜息をついた。
「やっぱり……わたしの占いの通りだったみたい」
幽美がペーパーナイフを鞘に納めてしまうと、今度は懐から死神のカードを出し、書也に見せる。
「死神のカード……まさか俺の寿命が残りわずかだとか言わないですよね!?」
「違う……このカードが出た場合、何かの終わりの暗示を示している。つまり、さっきまで書也と愛と一緒に居たのならば、その関係が終わりになってしまうような出来事が起きた……違う?」
真っ直ぐな目で見る幽美に書也は見透かされたと思い、目を逸らした。
「幽美先輩は……なんでもお見通しなんですね」
「書也、喧嘩して愛に酷いこと言った?」
怒った表情で言う幽美に書也は下を向く。
「俺、愛に酷いこと言っちゃいました……絵が上手いのにあんな誤字脱字だらけの文章でラノベ作家を目指すのかって……本当に最低ですよね」
「書也、ちょっとしゃがんで……」
「えっ?」
書也は幽美の通りにしゃがんだ刹那。スローモーションのように平手が撫でたかと思えば、ペチペチと何度も手を当てた。書也は呆然と幽美の訳の分からない行動を見守るしかなかった。
「察して……令和の今、暴力とかニュースになるぐらい危ないネタだから。芸能人関係者とか、プロのライターだと余計に気を使う……だからやるとしても呪いでしか、できないの」
「場合によっては呪いの方が危ないと思うんですが……」
頬を触り続ける幽美に苦笑いする書也。心なしか、頬がヒリヒリしてくる。
「愛に悪いと思うなら……ちゃんと謝って仲直りして……愛と書也が仲良くなるのは癪だけど……部活動で負のオーラが充満するのは嫌」
「でも……その死神のカードが出たら破局なんでしょ?」
書也はうつむいて言う。
「死神のカードは破壊と再生を意味する。壊れたら直せば良い……」
「愛になんて言えば……」
幽美が背中を押し出すと、駆けて来る人影が見えた。
「書也君!」
それは手を振る愛の姿だった。
「愛、お前なんで……」
「何でって……幽美ちゃんが書也君を確保したって、メールがきたから」
愛は恥かしそうに言う。幽美を見ると、後ろ手で隠すスマホが股の隙間からチラリと見えた。
「愛、ジャージの窃盗犯を確保した……」
幽美が書也の両手を掴み、愛に歩み寄らせる。
「ごめんな愛……お前の父ちゃんの形見なのに……」
「大丈夫、書也君にあげるつもりだったし」
「いや、愛の大切な物だろ。貰う訳には……」
「貰ってよ。ジャージなんて飾ってもしょうがないし……」
「……ありがとう」
書也のありがとうから、愛も言葉が詰まる。書也も愛も何も言えずに目を逸らした。
「んん!」
幽美が呻くように書也を促し、叩くように押した。
「ごめん愛! 酷い事を言った」
頭を下げる書也に愛は微笑する。
「わたしの方こそごめんね……本の事をすぐに言えば良かったのに……」
「本を勧めてくれてありがとう愛……お前が本を勧めてくれたから小説の創作を……好きになれた!」
書也は頬を赤らめて叫ぶように言った。
「良かったよ……わたしが子供の時に書也君にお節介な事をしたんじゃないかと思ってた」
愛は涙を流して言った。
「そんなことはない! 俺は愛に感謝しているんだ! 子供の時だけでなく、今でも! ラノケンを紹介してくれて感謝してる! だからその……これからも俺と付き合ってくれ!」
勢いよく頭を下げる書也に愛は涙を拭き、微笑んだ。
「わたしで良ければだよ……これからもよろしくお願いします書也君」
「うわ……何これ……告白……書也の台詞が臭すぎる……」
幽美が気持ち悪い虫でも見たかのような顔になる。
「いや、違うんです幽美先輩……俺的には謝罪というか……けじめというか……」
書也は恥かしそうに頬を染め、目を泳がしている。
「そうだよ幽美ちゃん……それじゃあ、わたしが書也君の告白に受け答えしたみたいだよ!?」
愛も頬をトマトのようにして、必死に両手を振って違うことをアピールする。
「やっぱり、書也にだけでも呪いでもかけておくべきだった」
幽美はバックから藁人形、金槌、五寸釘を取り出した。
「幽美先輩……また物騒な物を……」
「書也、一回呪いの実験台になって……この藁人形と五寸釘に打たれるだけでいいから!」
飛びかかるような勢いな幽美に書也は逃げ出していた。
「その五寸釘、玩具とかじゃなくて絶対に死ぬ奴ですって!」
『マテェェェッ!』
デスボイスのような幽美の声が響く。
「ひいいいいっ!?」
そして書也の悲鳴も続いて響いた。
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