第29話 静かな怒り2

29話 静かな怒り2



(犬原君……だよね?)


 ピリピリと、肌がヒリつく。


 彼と付き合い始めて、色んな表情を見た。


 笑う顔、照れる顔、優しい顔。


 でも今の彼の表情は、そのどれとも違う。


 初めてだ。ーーーー犬原君が怒っているところを見るのは。


「俺ぁ今むしゃくしゃしてんだ。お前がコイツの代わりに相手してくれんのか?」


「……」


 私の胸ぐらを掴んでいた手が、ゆっくりと離れる。


 この人の標的は今、完全に私から犬原君へと移った。


 このままでは犬原君がやられてしまう。そう思い、さっきまで泣きじゃくりそうになりながら必死で彼を止めようとしていたのに。


 どうしてだろう。もしかして私は、彼のことが好きだからと心の中で勝手に期待してしまっていて判断基準がおかしくなってしまったのだろうか。


 こんなに体格差があって、見た目からも喧嘩の経験の差がハッキリと見て取れるのに。


ーーーー私は、彼が負けるとは思えなくなっている。


「先輩は、あなたみたいな人が触れていい人じゃありません」


「あ゛?」


「僕、怒ってますから。手加減はできないですけど……それでもよければ、どうぞ」


 犬原君の挑発じみた言葉に、男の理性が完全に消える。


 ぷつんっ、と。理性の糸が完全に切れたような。私が刺激し、爆発寸前まで持っていっていたそれが。完全に崩壊した音が聞こえた。


「ナメんーーーーっ、ぇ?」


 そしてそれは、一瞬のうちに起こった。


 犬原君の細い身体に拳が当たりそうになった、その瞬間。男の方の身体が吹き飛んでいたのだ。


 いや、吹き飛んだというのは正確ではないか。″回った″のだ。空中で、まるでアクロバティックな大道芸をする人のように。


「は? なんだ、今の……」


 私も、隣にいたヤンキーさんも。そして殴りかかった当の本人も。全員が今起こったことを理解できず、頭をフリーズさせる。


 本当に、それほどまでに一瞬のことだったのだ。犬原君が殴りかかられてから、男の身体が宙を舞うまで。その軌道は、私では見ることさえ叶わなかった。


「何しやがった……テメェッ!!」


「犬原君ッッ!!」


「すぅっーーーー」


 そこからは……一方的だった。


 殴りかかっては倒され、殴りかかってはまた倒されの繰り返し。私同様、何をされているのかも分からないままに。気づけば男の息は切れ、服が砂まみれになって。身体に小さな傷が増えていく。


 これはもう喧嘩なんかじゃない。喧嘩というのはお互いの実力がある程度拮抗していて初めて起こるものだ。あの二人じゃ、それはできない。


 二人にはーーーー絶望的な力の差がある。


「ふざっ……けんなッ。テメェ、真面目にやる気あんのか! ふざけた子供騙しばっかりしやがってよぉ!!」


「子供騙し? そうですね。そう言われても仕方のないものなのかもしれません。僕には正面から殴り合ってあなたに勝てるような力はありませんから。だから……これを使うしかなかった」


 静かな怒りを携えて。彼は言葉を紡ぐ。


「でも、どう思われようと関係ありません。僕は先輩を守りたい。それができるなら、そんなこと。どうでもいいですから」


 ああ、犬原君はきっと、私が想像してる何倍も……何十倍も怒っていたのだ。


 だってこんな、生殺しのような戦い方。きっと彼には一瞬であの男を倒してしまえるほどの力があるのに、それをせずに。生かさず殺さずで痛みだけを与えて喧嘩を終わらせずにいる。




「もう終わりですか? そんなわけないですよね。少なくとも……僕の気はまだまだ、治ってませんから」

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