第6話 儀式


 お屋敷に戻られると、姫君は真っ先に釣殿の方へと向かわれました。

 そこで四隅を確認し、それから単衣を脱ぎ袖をまくり上げると、縁側に出て池の水に手を伸ばす。


「やはり程よく冷えておる。天文てんもんのお告げ通りよ」


 そう言って夜空を見上げる姫君。

 良く晴れた宵の空には無数の星が鮮やかに瞬いていた。


 姫君は寝殿に戻ると、手前の廊下で正座したまま控えていた女中にこう申しつけた。


瀬蓮せはす、男衆に庭で篝火の支度をさせよ。それと氷室ひむろから氷を取り寄せるよう手配せよ」

「氷室? 今時分いまじぶんにでございますか?」

「うむ、明晩『とり刻参こくまいり』を執り行うゆえのう」


 姫君がそう告げると、女中は眉をひそめて問う。


「いま一度うかがいますが、『うし』ではなく『酉』でございますか?」

「さよう、『酉』である」

「承知仕りました」


 答えると、瀬蓮せはすは一礼して立ち去りました。



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 その日は前日までの冷え込みが嘘のようで、午前中にわか雨が降ったかと思えば、午後には残暑が舞い戻って来たかの如き蒸し暑さをぶり返していたという。

 屋敷では下郎げろう達が『酉の刻』に備えて氷室ひむろより調達した五尺ごしゃく(約152センチメヱトルセンチメートル)ほどの氷を四柱、対角に設置。

 氷と氷の間には、篝火の燭台が置かれていた。


 そして日が沈む頃、馬に先導されて牛車ぎっしゃが門前に到着した。

 それを見た瀬蓮せはすがそそくさと寝殿へ向かう。


「姫さま、西門に昨日の殿方、それから牛車が参られましたが……」

連れて参ったか」


 まるで予知していたかのように述べる姫君のお顔は、少し火照ったように朱色に染まっておいででした。


「どなたさまで?」

西大納言かわちのだいなごんどのよ」

「大納言……西嫡妹かわちのつぐもさまでございますか?」

「他に誰がおる」

「では、急ぎお出迎えいたします」

「いや、われが参ろう」


 そうのたまわれると、姫君はわずかに目を細められた。



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「これはこれは大納言どの、ようお出でなされた」


 うやうやしくこうべを垂れる姫君。

 大納言殿も、これに満足して返礼する。


「こちらこそ『陰陽寮なかつかさの姫君』自らのお出迎え、恐悦至極におじゃりまする」


 おじゃる系麻呂でした。


「それにしても噂に違わぬ美しさでおじゃるのう」


 姫君の赤らんだ顔と艶やかな肌から漂う薬湯の香りに当てられてか、思わず唾をのむ大納言殿。


「まあ、お上手ですこと。では、ご案内いたしましょう」


 姫君は、大納言殿の戯言を適当に流して「こちらへ」と会釈する。

 そうして、殿方たちをお連れしたのは屋敷の風呂殿ふろどのでした。


「ここは?」

「わが屋敷の風呂でござります」


 風呂と申しましても、今日こんにちのように浴槽に浸かるのではなく、いわゆる蒸し風呂のこと。

 閉め切った屋内で湯気を浴び、流れた汗や浮き上がった汚れを拭って最後に湯水をかけるという作法があったとか。


「みなみなさま、まずは悪しき気を身体に取り込まぬようご覧になられるがよろしかろうて」

「そういえば『儀式』でおじゃったな」

「さよう、湯殿ゆどのの代わりと思われよ」


 湯殿とは、宮中で儀式の前に浴槽の湯水をかけて身を清める建屋のこと。


「湯をかけるのは同じというワケでおじゃるな」

「蒸した湯気でけがれを払えますゆえ、より効能がございましょう」


 得意気に宣う姫君に、大納言も「なるほど」と頷かれる。


「されば、麻呂たちも陰陽寮なかつかさの姫君が風呂を頂戴ちょうだいするでおじゃる」

「ゆるりと身を清められるがよろしおす」


 そう言うと、姫君は扇越しに笑みを浮べられた。

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