第2話 姫君


 昨夜は、それは見事な望月もちづきでありました。

 まるで千年に一度あるかないかというほどの美しさで、かの物語につづられた天人てんにんが空飛ぶ車に乗って舞い降りて来そうな神秘的なよいの空に、わたくしの視線は釘付けにされたものです。


 そして――そんな月夜の晩に起きたある事件を巡り、一人の姫君の物語が静かに幕を開けるのでした。



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 それは、かように麗しき月が黄金色こがねいろに輝いた夜のこと。

 天より舞い降りたる車が、美しき姫を乗せて飛び立っていったという、一夜の夢がごとき話。


 口さがない京人みやこびとの間で「その事件」は瞬く間に広まっていった。

 こと、宮中にいたっては、真偽定かならぬ話が飛び交う始末。

 つい先頃も、


みかどめいで、くだんの薬を天にそびえる山の頂で燃やされたらしい」

「たしか不老不死の霊薬れいやくとの話であったが……」

「それをしたとあれば、さしずめ『不死の山』ということでおじゃるな」

「ほっほっほっほ」


 などと公卿たちが冷ややかに談笑していたほどだ。

 にしても、


「不老不死のぅ……」


 すれ違う殿方らを尻目につぶやきたるは、やんごとなき一人の姫君。

 薄紅色の単衣ひとえを小さな体で引きずる人形ひいながごとき愛らしい顔立ちの少女は、しかして刀刃のごとき眼差しで現世うつしよを見つめていた。


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 まこと面妖めんようなる話よ。

 形ある物はいずれめっする。

 永久とこしえなどというものは所詮「つい」を恐れるがゆえのはかな願望ゆめに過ぎぬというのに……


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 胸の内でそうつぶやきながら姫君が思案顔で廊下を歩いていると、


「あら、そこにおられましたか。桐子とうしさま」


 後ろから鈴のような可愛らしい声で呼び止められる。

 振り返ると、紫の単衣ひとえをまとった妙齢の女房が一人、しずしずとこちらに寄ってきた。


 この女房にょうぼうというのは内裏だいりにお仕えする女官にょかんで、帝や皇后といった高貴なる御方の身の回りのお世話や相談役を始め、学ある者なら教育係も任される名誉あるおつとめです。


「これは輝子きしどの、どうかしましたかいかならむ?」

「はい、中宮ちゅうぐうさまがお探しにございましたよ」


 中宮ちゅうぐうとは、皇后の住まわれる宮殿であり、そのあるじたる皇后ご自身への敬称でもあった。


「わかりました。では、中宮さまのご機嫌うかがいに参るといたしましょう」



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桐子とうし

「はい、こちらに」


 板張りの床の上で平伏ひれふす先、御簾みすの奥で姿勢正しくする中宮さま。

 そのたたずまいたるや、あかつきの明星みょうじょうがごとく何時いつ見てもお美しい。


「お待ちしておりましたよ」

「はい中宮ちゅうぐうさま、こんにちはご機嫌麗しゅうございますか?」

「ええ、とても」

「それは大変いとよろしき事にございます」


 そこで姫君、初めて垂れていた頭を上げ、口元を袖で隠しながらにっこりと笑みを浮かべる。

 中宮さまも同じく口元を隠し、二人で軽やかに笑う。

 そして、御簾みすが上がった。


格子こうしを上げても冷たき風が吹くばかり。雪でも降っておれば、いささか趣があろうか」

「何か気になることでもございまするか?」


 姫君が問うと、中宮さまは膝元に折りたたまれた扇を手に取られた。


「実は一月ひとつきほど前、みかどがある女子おなごの屋敷に出向かれてしまいましてね」

「一月前と申しますと、まだ暑さの残る頃合いでござりますね」

「そうそう、わたくしも避暑ひしょを求めて吉野参よしのまいりに行っておりましたが……」

「その隙を突かれた……と?」


 そこで扇を開き、口に当てながらうなずく中宮さま。


「困った天子てんしさまですね。わたくしであれば、結界を張って内裏だいりに閉じ込めてしまいましょう」

「それは名案ですね」


 そう言って、姫君と中宮さまは口元を隠して「ほほほ」と笑う。


「そういえば、『不老不死の霊薬』なるものを帝が燃やされたとか?」


 ふと思い出したかのように、姫君が問いかける。


「ええ、衛府えふの者に渡して、東の天上に近い山頂で焼かせたと申してました」


 衛府えふとは、御所ごしょや都を警備する衛兵の役所のこと。


「さようでございましたか。帝が薬を燃やされたとされる山はおそらく歌にも読まれた『不尽ふじの山』の事でありましょう」

「そこまで読み取るとは流石ですね」


 ピタリと場所を言い当てた姫君の推理に感心する中宮さま。

 おそらく『不死ふし』と『ふじ』をかけた言葉遊びでもあるのだろう。


「されど、あそこはその名のごとく『尽きることなきほむらが立ち昇る山』と聞きおよんでおりまする。鬼道きとうに通じた修験者しゅげんじゃならばいざ知らず、都でろく衛府之侍えふのさぶらいごとき、たやすく登れるものでもありますまい」

「では、霊薬を焼いたのはそこではないと?」

「はい、わが見立てでは、おそらく……この近隣で最も天上に近い『不尽ふじ』の見晴らせる山。すなわち、吉野山よしのやま辺りでございましょう」


 吉野山よしのやまは桜の名所で知られ、春になると一面が桜色に染まるとか。

 また、都を追われた天子てんしが再起を計るためにしばしば潜伏される場所とも伝えられており、見晴らしが良く遠くの「ふじ」の山まで見通せるとか。


「やはりそなたを呼んで良かった」


 そうおおせになると、中宮さまは袖口から折りたたまれたふみを姫君の前にそっと差し出された。

 冷たい床板の上に置かれたそれを手に取り、はしに記された一際大きな一文字に目を止める。


「この草名そうみょう西家かわちけの」


 草名そうみょうとは、いにしえより貴族の間で使われた署名のことで、しなやかな草書体で書かれているのが特徴です。


「こたびは大納言だいなごんより、その女子にまつわる怪異について相談を受けましてね」

「なるほど、それで吉野参りの話を振ってお試しあそばれたわけですか」


 そうこぼしつつも、どこか楽し気な表情を浮かべる姫君。


「頼まれてくれますか?」

「他ならぬ中宮さまのお願いであれば喜んで」

「では、大納言にはふみで伝えておきましょう。用向きは明日みょうじつ使いの者を向かわせるとのことですので、その時に聞くとよいでしょう」

「はい、中宮さま」



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 姫君はその日、余りにも煩わしい声で目を覚まされたという。


「たのもう、たのもう!」


 門前で響くその声は力強く、しかし硝子ガラスのような透き通った音色であった。


 はあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~……


 姫君、大きくため息ついて曰く、


「ぶしつけにもほどがあるとはまさにこの事。いきなり訪ねて来て『家主に会いたい』とは、西かわちの家の者は作法を知らぬと見える」


 姫君は、他人ひとより少し広いと評判の額に扇を当てると、しばし間を置いてから侍女じじょの一人にこう申しつけた。


瀬蓮せはす、かの者を出居いでいにお通しなさい」


 この『出居いでい』と申しますのは、当時の貴族屋敷における客間のこと。


おおせつかまつりました」


 一礼すると、瀬蓮せはすと呼ばれた侍女は、そそくさと西門へ向かった。

 それの姿が見えなくなる頃合いで、姫君は扇で口元を隠しつつ、ぼそぼそと胸の内を零された。


「さても無礼な殿方には、しつけをほどこさねばならぬのぅ」

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