第20話 神の随に

 闇の向こうで、小さな影が蠢いた。



「津川先生」



 いつもよりもやせ細った様子の津川先生がそこにいた。杖をつき、すらりと細長く棒のように立つ姿は、表情が見えない分、無機質に感じた。

 ルカの呼びかけに応じず、無言のまま津川先生は背中を向けている。


 ずるりと、横たわっていた影が突然、持ち上がった。


「助け、て……」


 津川先生の傍で倒れていた人間の掠れた声。はっきりと姿は見えないが、たしかに聞き覚えのある声だった。


「仕摩置先生……⁉ どうしてここに」


 それだけではない。周囲を見渡すと、暗くて見えづらいが辺りには人間が何人か横たわっている姿があった。商店街の入り口で訴えていた人間たちの声が頭の中で甦る。


「なんでこんなこと――」

「少し、待ちなさい。一日中、延頸鶴望していたのです。まもなく、育ち終える」


 育つ。


 津川先生は誰も通らない商店街の一角で、何かが成長するのを待っていた。


 掴みどころのない言葉に惑わされていると、違和感を覚えた。横たわった人間たちから、何か太い管のようなものが伸びている。管の先を追っていくと、津川先生の奥にまで進み、それ以上は暗すぎてよくわからない。


 ――いや、暗すぎるのではない。黒く塗りつぶされた存在が、そこにいるのだ。


 光が届かない結界内で、その存在は燻っていた。時が来るのをじっと待っていた。


 闇が震える。声も発さず、音も発さず、気配すら感じられないその存在が、影が、ぬるりと身体を持ち上げた。


 暗さに慣れてきて、何となくその存在の姿かたちが視覚的に判別できるようになってくる。


「ウイルスみたいな顔だな。顔なのかも、わからねえけど」


 なるほど、とレイナの表現がルカには一番しっくりきた。


 体長は三メートルほどあり、顔に当たる部分は、化学の教科書で見るようなウイルス粒子の形をしている。目や鼻、口はなく、生物なのかすら怪しい。


 顔の下には、とってつけたような人体に似せた不安定な身体。先端になればなるほど細く、ゆらゆら揺らめいて、地に足がついていない。出で立ちは霊を思わせた。


 論理的に判別できない。この世ならざる怪物が、そこにはいた。


「おお、なんと醜いことか。なんと汚らわしい存在か。これで……これでこの街は救われる。救世済民である」


 怪物に管をつながれていた人間たちの身体が大きく跳ねる。そして、倒れていた老客男女の人間たちが、ゆらゆらと起き上がる。手練手管の限りを尽くしていた。


「これは、裏切りですよ、津川さん! 街の人たちをこんな目にして、フェイアス様への反逆に値します」


 達郎が耐えられずに訴えかける。


「反逆上等です。私は運命の神様に出会ったのです。あの御方は私に全てを与えてくださる。見なさい、恋した女をこうも簡単に扱える」



 恍惚の表情を浮かべた。倒れている仕摩置先生の艶やかな長い髪を、ゆっくりと楽しみながら己の欲望のままに撫でる。


「気持ち悪ぃ」


 吐き捨てるようにレイナは言うが、津川先生は止まらない。怪物に合図を送ると管につながれた仕摩置先生の身体を無理やり起こす。卑猥な目で全身を舐め回すように見る。


「もう、戻れませんよ」


「この御使いは、街をあの御方が乗っ取るための対神兵器になり得ます。もう戻る必要はない……今日は、神すら恐れる革命前夜です」


 怪物を、津川先生は御使いと呼んだ。淡々と演説する姿は学校で授業をしているようで、先生らしい立ち居振る舞いだった。


 仕摩置先生から怪物の管が外れる――――ぐちゃっ、と音がして、意識を失っている身体が崩れ落ちた。到底、生き物に対する扱いではない。


「人間が犠牲になる方法を貴方は許せるのですか⁉」


「至極当然。それが、神の望みであるのならば」


 神が願うなら、生徒が被害に遭っていたことを憂いていた心も、人間の犠牲は仕方ないという心に変貌する。


「信じる神の方針に従うだけ。それが津川さんの根本ですか、自分の考えなどまったくないと言うのですか……!」


「ふむ。天使長といい、星宮嬢といい、つくづく星宮家は考えが甘い。ここ数年間、偶々平和に生きれただけであって、人生はいつでも神の思うが儘なのですよ。よくご存じでしょう」


 ちょび髭をさすりながら、津川先生は鼻で笑った。


「それなのに星宮嬢は学校行事をしたいとおっしゃる。昔、があんなことになったというのに、平和ぼけも甚だし――」


「貴方が」


 途端、重たく低い声が、空気を震わせる。ルカやレイナに対しては絶対に発さないであろう、天使長・星宮達郎の声色であった。


「何も知らない貴方が、簡単に踏み抜いて良い話ではない」


 いつの事の話だろうか。達郎が怒っている理由はルカにもわからなかった。


「笑止千万。臭い物には蓋、ですか。生温くて私は吐きそうですよ。『死んで自由を得たい』という生徒たちの方が、まだ賞賛に値する行動と言えるでしょう」


「自由?」


「私には到底理解できないことですが……生きることはすなわち不自由である、と」


 自由を求めて、生徒たちは死のうとした。今の世界には、自由がないから。


「あいつらが自殺しようとしていたのも、神の力なんかじゃなくて、操られているからなんかじゃなくて、そう望んでいたからだって言いたいのか」


「私は死にたいと思ったことはないです。愛しの御方と一蓮托生でいられるのならば、こんな素晴らしい世界はない。ただ、今の人生に見切りをつける人もいる。それが『救い』だとあの御方に教えていただいたおかげで、希望を持てた人もいるのです」


「適当なこと言ってんじゃねえよ」


 思わず、語気が荒くなる。屋上で飛び降りた莉音は泣いていた。学校で生徒たちはゾンビのように身体を動かされていた。


 それが自ら望んだことなんて。それこそ、唯が救われないじゃないか。


 ぽん、とルカの背中をたたく神がいた。




「落ち着けルカ。ニンゲンが本当に心の底から思っていたわけじゃねえよ。ほんのちょーっとでも持ってた欲を、ねじ曲げて増大させてるんだろうよ。みみっちい力だ」



 レイナの直球の言葉に、津川先生は首を九十度に曲げた。


「神を愚弄するとは恐れ知らずにもほどがあるぞ、小娘よ。あの妍姿艶質かつ賢者であるあの御方の神刻を馬鹿にするとは……さては名も知らぬ君、私を誑かす気だな?」


「は?」


「ふむ。君もなかなか良いをしている。だが、ちと艶めかしさが足りないな。それでは私のセンサーにはかからないぞ」


「は⁉」


「レイナ、無理だよ。欲望が増大しているって、言ってたじゃないか」


 津川先生の場合は、元からの可能性が高いけれど。


「おい、あの爺は何もんだ、ぶん殴って良いよな?」


「ダメだ、操られてるんだよあれは」

「ホントに操られてんのかあれは⁉」


 知り合ったばかりのレイナだが、一番怒っているのは見て取ることができた。


「ルカ、さっき言ってたやつやるぞ。あの爺になら何やっても良い気がする、いや、ボコボコにしないと気がすまねえ!」


「単純だな、レイナも」


 揺蕩う怪物が、身体から生える管を枝分かれさせ、数え切れぬくらいに増えていく。

 呼応して黒い塵がざわめきだすと、ルカたちを囲うように飛び回る。さらに視界が暗くなる。


「邪魔をするというのであれば。生徒であろうと可愛い女子であろうと排除しよう。人間は神のために命を捧げるもの。それが出来ぬというのは古今東西、許されざることである」



 津川先生は杖を両手で握りしめ、持ち上げる。杖の先端が邪悪な光を帯び始めた。




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