第19話 次なる闇

「はーい、いってらっしゃーい」


 唯の言葉に手を挙げて応じると、ゆっくりとスライドドアを閉めた。一息吐いて、病院の廊下を歩きだす。病院特有の消毒の匂いが鼻の奥を深いにさせる。


 慌ただしく看護士がルカを避けるように通り過ぎていく。いきなり高校生がたくさん入院してきたせいだろうか。突然訪れた忙殺に、苛立ちを覚えていないだろうか。早口で何かを伝えている医者の姿を見て、気の毒に思う。



 階段を降り、病院の出口の前に立つ。自動ドアが開くと、一歩踏み出し、外に出る。



 初夏の蒸し暑さを肌で感じ取る。どんよりとした曇り空。


 アスファルトの上を歩いていると、バランス良くガードレールの上に立っている、レイナの姿があった。今日はキャップを被り、別のパーカーを着ている。ポケットに手を突っ込んで風を感じていた。




「よっ、唯とは話せたか?」




「話せたけど……そのスカートどうしたんだよ。盗んでないだろうな」


 黒の短いスカートを履いていた。そんなものは家にはないはずだった。


「ルカが唯と会ってる間に買ってきた。ツケで頼む!」


「俺の金かよ!」


 あとで達郎に請求しようと、ルカは誓った。


「わざわざ会いに行くなんてホント、唯はルカのお気に入りなんだな」


 レイナは病院の方を眺めている。


「あのなあ、俺には何しても良いし、何言っても良いと思ってるだろ」


 ただ、言っていることがあながち的外れというわけでもないのが、ムカつくポイントだ。


「うん、思ってるぞ」



 ルカにとって星宮唯はどういう存在か。お気に入りは上から目線だ。もっと適切な言葉があるだろう。けれど、ルカにはまだ思い当たらなかった。



「じゃあ、行くか? 私はまだ寄り道したいけど」


 一つの言葉が、ルカの脳裏に浮かんでいた。



「いや、行こう。俺たちにはそれしかできないのだから」




 ♢♢♢

 



 唯と会う数時間前。天使長である星宮達郎から連絡があった。その連絡はルカが予想していた情報から大きく外れていなかった。

 昨日、神殿を出てルカのアパートに戻る途中、ルカが疑問に感じたことを達郎に伝え、早急に調べてもらっていたのだった。




 天使学の先生、津川祁連についてである。




「昨日、津川先生とは街中で会ったんだ。天使学の先生が、天使学の課外授業を放っておいて。大きい荷物も抱えていた」


 そしてフェイアスの『目』の記録を、達郎が探してみたところ。


「商店街に入る姿を確認できています」


 フェイアスの『目』も完全ではない。そもそも街の監視機能というより、神刻による街の結界を保持するための機能である。

 

 神刻・《催眠hypnosis》から生み出された固有の力であり、レイナが犬の姿と人間の姿になることができるのと、同じようなものだ。


「偶然かどうかは不明ですが、避けようと思えば避けられるものに映っていたということになります」


「罠か」


「その可能性は大いにあります」


 わかりやすい罠だが、敵のアクションを放っておくほど、大らかではない。


「唯には言ったのか? これから神を倒すっていうのは」


「いや……言ったら無理にでも来ちゃうだろうから。それにまだ神がいるとは限らない」

 昨日と同様、津川先生も神によって操られているという可能性が高い。神に指令を与えられ、それをやり遂げたとき、死ぬ道を選ぶ。


「相変わらず、人間が死のうとするさまを楽しんでいるかもしれない」


 ただの快楽犯というだけでないのは確かだろう。何か目的でもなければ、神のいる街に喧嘩をふっかけたりしない。


 神自身であるフェイアスはその喧嘩を一切買っていないわけだが。


「娘が! 娘が見当たらないんです! 赤い靴を履いてて丸顔の――」

「おい、じいさんがまだ店のなかにいると思うんだ! 探してくれ!」

「妻が、妻が触手みたいなのに連れてかれて――」


 商店街の正面の入り口では多くの人々が叫んでいた。

 天使たちはその対応で忙しくしている。フェイアスからの勅令により、一般市民の出入りを禁止したのが原因だろう。


 いや、そうでもしなければ、もっと多くの人間が神隠しにあっていたに違いない。


 ルカたちは人間たちの集団を見て、迂回する。天使でもないルカが達郎と一緒にいることに、他の天使たちにすら怪訝な顔をされている。

 レイナの従者として通っているが、ルカにとっては全くもって遺憾である。


「商店街を調べたところ、一角に結界が張られていました。以前、事故があったことで封鎖されて誰も出入りしていないような場所です」


 達郎から説明を聞きながら、商店街のなかを進んでいく。


 シャッターは降り、人が全くいないせいで、哀愁を漂わせている。落ちているゴミや、店の壁に描かれた落書き、すり減ったコンクリートの道。やけに、商店街の汚い部分が目に付いた。


「こそこそやるには、おあつらえ向きの場所ってわけだ」


「おっしゃる通りです」


 商店街のなかに進むにつれ、ぴりぴりと肌を痺れさせるような不穏な空気を感じる。


 学校と同じ、結界だ。学校のときとは違い、道を見失うということは特段なかった。ルカたちを出迎えるように、すんなりと見つけることができていた。


「痛いとわかって行くのは、結構、躊躇うね」


「しゃあねえよ。それともなんだ、痛いのは怖いのか?」


 にやにやと煽るようにレイナは笑う。


「そんなわけないだろ、呪唱の結界が何だってんだ」



 ルカは意を決して結界に中に入った。突如、痛みが走る。身体中に電撃が巡るような感覚がして、身震いした。



「あーウザイな!」


 平気そうにしていたレイナが一番に苛ついていた。


「思っていたよりも痛みが強い結界ですね……」


 一緒に結界内に入った達郎も苦しみ、悶えている。ルカは目を反らし、前を向く。


 学校の時とは違い、結界のなかは昼間だというのに薄暗かった。それ以外は、先ほどとは周辺の様相は変わっていない。しかし、神にとっては暗いだけで十分なようだ。


「塵……いや、


 今まで黒い塵のような、ゴミのような何かが、人間たちに纏わりつき操っていたと思っていたが、それは虫だった。


 これまで見てきた塵とは違い、塵の粒が一回り大きくなっていたことで、ようやく虫だと気づくことができた。


 羽音で空気を振動させ耳障りな音を立てる。しかし、特段襲ってくるという様子はない。



「神を倒す方法だけど、レイナ」



 脳を侵していくノイズを振り払うように、無理に言葉を捻りだした。


「何か思いついたのか?」


「俺たちがこれからどうすべきか考えてた。昨日の夜、ずっと」


 フェイアスの言葉が頭の中で反芻する。



「レイナの神刻を解放させる」



「考えすぎて頭おかしくなったか」


 背伸びをして、ルカの頭を優しく撫でる。すぐにルカはその手を振り払った。


「違うって! よく聞け――」


 ルカはレイナの耳元に口を近づけると、小声で話し始める。くすぐったそうにレイナは身を揺らした。



「…………そんなことできんのか?」



「フェイアス神が言っていたことを考えたら、これしかないと思う」


「ふん……ずいぶんと考えを変えたみてえだけど、なんかあったのか?」


「……?」


 影に隠れうずくまっていた反動があったのか、黒い虫があちこちで飛び回っている。陽の光がないせいか、それとも悍ましさ故か、妙に肌寒い。


 ルカは歩きながら思案していたが、すぐに止める。身体が勝手に強張るのを感じる。



 闇の向こうで、小さな影が蠢いた。



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