第4話 夜

 ルカは、休日の明日、唯と会う時間を決めて別れた後、学校から歩いて十五分ほどにある、自分の住むアパートに着いた。


 あくびをしつつ、カバンから部屋の鍵を取り出しているそのとき。


 一人の声が閑散とした月の出ていない夜に響いた。



「やっと帰ってきたか。ずいぶん遅かったな」



 ルカは声の方に目を向ける。二階の廊下のフェンスに寄りかかっている一人の女子がいた。


 蛍光灯で、背後から無機質に照らされた女子の姿に眉をひそめる。


 その女子は服を上から下まで着ておらず、すらっと長い足に引き締まった腰、フェンスでは隠し切れないふっくらとした胸が見えてしまっていた。


 しかしそれよりも印象的なのは、キュッと上がった目尻に燃えるような紅い瞳だった。威圧的な光を放ち、品定めするようにルカを睨んでいる。


「まさか」


 女性の姿に、ルカは全く見覚えがなかった。しかし聞き覚えがある声だった。

 それに加えて、纏うオーラ……神としての雰囲気に覚えがあった。


「人間の姿にもなれたのか、黒犬の女神」


 学園の屋上まで案内し、事件現場に居合わせた黒犬。実際は犬にも人にもなれる女神だった。


「私にはレイナっていう立派な名があるんだよ。概念呼びはやめてくれ、ニンゲン」


 言葉遣いが乱暴なのは、レイナと名乗る神にとっては些事のようだった。


「……悪かった、レイナ女神。俺は睦月ルカだ」

「ルカか、良い名前だ」


 レイナは来いというように手招きする。


「とりあえずルカ、部屋の中で話さねえか。この格好じゃ寒くてよ」


 初夏とはいえ夜になると未だ肌寒い。犬ではなく人間の姿だと裸では辛い季節だ。


「なんで服持ってないんだよ」


 ルカは金属音を立てながら二階へ上がる。


「犬の姿で服着てたらキモいだろ」

「いや、今は犬でも服着るよ」

「……マジか」


 間近の距離で対面する。波状のシルエットのウェーブヘアが肩にかかっており、首には金の鎖の飾りをかけている。ルカと同じように高校生程度の年齢に見える容姿だった。


 ただ一つ違うとすれば、黒い髪の中、頭に二つある犬耳があるままだった。


「その耳、残ったままで良いのか?」

「いや、良くはねえが……『魂力こんりき』が足りなくて、碌に変身もできねえのよ。かといって、犬のままじゃ普通の会話はできねえし」


 魂力。人間や神の生命力や、力の源泉と言い換えることもできる。


 一方で魂力を呪いとして変換し唱えることができる、それが呪唱だ。


 そして呪唱の延長線上、遥か先に神のみが扱える力が存在する。


「ああ、なるほどな」

 ガチャリと音を立て二〇二号室の扉を開けた。レイナは遠慮なく、ぺたぺたと素足のままルカよりも先に玄関へ入る。


 一人暮らしのワンルーム。パーソナルスペースに土足で、しかも裸で上がり込む存在を、ルカは渋面で見つめた。

「なあ、いったん風呂に入ってくれないか。その間に着るもの用意しておいてやるから」


 ルカの言葉に、レイナも渋面を作る。


「風呂に入らなかったら?」

「じゃあ、家には入れられない」

「あー潔癖症ってやつか」

 ルカは否定の言葉が出かかって、止める。

「なんでも良いから、頼むよ」

「……しゃあない、わかったよ。安心しろ、私は郷に従うタイプの女神だ」


 サムズアップするレイナをルカは風呂場に案内する。なんてことはない、トイレと洗面台が収まった三面ユニットバスだ。


 シャワーカーテンを閉めてあげた後、ルカもそのまま洗面台で手に石鹸をつける。


「せっまー!」

 カーテン越しに、騒ぎながらシャワーを浴びるシルエットが透けて見える。


「色々聞きたいことはあるんだが……そもそもどうして俺の家がわかったんだ」

「私は犬の姿でもあり、人間の姿でもあるからな。ルカの匂いを辿った」


 レイナはほっそりと伸びる腕に、泡を滑らしていく。


「じゃあ、なんで俺の家に来たんだ? あのとき、凄かったのは星宮さんの方だった」


 死のうとしている人間を本当に止めるべきなのか、ルカは迷って、悩んで、決断もできなくて、結局何もせずに事態は勝手に解決した。


「何言ってんだ、『後で話は聞かせてもらう』って言ってたじゃねえか」


 ルカは水で石鹸を洗い流していた手を止める。大げさに低い声で真似をするレイナのことが癪に障ったが、華麗にスルーして、あのときの会話を思い出す。


「意外と、律儀なんだな」

「普通だろ。それに、泊めてくれる家も欲しかったし」

「泊まるのかよ、別に良いけど……今までどうしてたんだ」


 背中を屈めて、真っすぐ太ももから足まで洗う。微かに吐息が漏れる。


「となり街の神殿に居候してた」

「……県の掟破りだというのは、わかってるか?」


 例外はあるけれど、この県では、街ごとに一柱の神だけが住むという掟を作ることで、神々の間での衝突を減らしていた。


「もちろん内緒で、だ。バレなきゃ問題ない。結局はこうして追い出されたんだけどな」

「追い出された?」

 ルカは部屋に入り、引き出しをあけてバスタオルと、着ることができそうな服を探す。


「つい、昔からの癖で食いつぶしちまったんだよ。街にあった食料全部」

 反射で、ルカは風呂場の方を振り返る。


「は?」

「その件は私もつい大人げなく怒っちまったんだけどよ。そもそも、あのアホ神が私に全く魂力を分けてくれなかったのが悪いんだ。そりゃあ、『神刻しんこく』の影響も出るってもんだよ」


 レイナはシャワーの水栓をひねり、全身の泡を流していく。ルカは思わず黙り込んでしまっていた。


「ああ、ニンゲンには神刻のことはわからねえか。神刻ってのは、神が持ってる刻印のことだ。身体に封じている神刻を解放すれば、呪唱を超えた神特有の力を発動できる」


 屋上でレイナが唱えてみせた呪唱。多くの呪唱は一定以上の天使や神であれば、誰でも使えるが、神刻は違う。


 神それぞれが特有の刻印を持ち、神のみが扱える力。それが神刻だ。


「……それは知ってるけど、どんな神刻だよ」


 神は食物からの栄養を必要とはしていないため、食べなくても生きてはいける。


「まあ想像はつくだろうし、言っても構わねえけどよ……その前に、私からも一ついいか?」

 レイナはシャワーカーテンを開け、浴室から顔を出す。艶やかな犬耳や長い黒髪から、水滴がぽたぽたと垂れ、床を濡らす。




「ルカ、お前は何者なんだ?」




「……? どういう意味だ」

「私を見ても驚かなかったし、気軽に喋るし」


 ずれた黒ぶち眼鏡をルカは直す。


「ニンゲンは、神相手なら身勝手に敬うやつしかいなかった。神殿に住みついて何も与えていなかった私みたいな神でも、だ」


 唯と話すときと変わらない調子で、神と会話をしている。その口調には敬いや丁寧さはなく、それは人間ではあり得ないことだった。




 ルカはバスタオル片手に抱え、おもむろに立ち上がる。


「あー……それはな」


 黒い瞳。特別な雰囲気はなく、どこにでもいるような平凡な人間の学生。

 黒ぶちの眼鏡をゆっくりと外す。前髪が軽く揺れた。


「簡単な話だよ」


 黒かった瞳は。ルビーのように輝く真っ赤な瞳へと変化していた。



「俺も、神なんだ」


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