第2話 事件

 ルカは突拍子もなく鳴った音に一瞬固まる。

 同じく動きを止めた唯と目が合う。時間がゆっくりと進んでいるような感覚になった。


「犬?」


 すると、唯が何かに気づいたように、まっすぐ弧を描くように腕を上げ、指をルカに向ける。

 ルカは少しだけ眉をひそめたが、否、その指はルカの後ろを指していた。


「黒い犬がいる」


 ルカは勢いよく振り返る。誰もいない長い廊下を通過し、すっかり薄暗くなっている階段の踊り場に、それはいた。

 ルカと唯からはかなり距離があったが、それでも、薄い黒色を上から塗りつぶすようにそこに何かがあるのを、確認した。


「なんでこんなところに――」


 真っ黒な小さな体が踊り場をゆっくり歩いている。ルカからは分かりにくかったが、黒犬は鼻をぴくぴくさせながら、屋上に行く階段の方のにおいを嗅いでいた。

 何かを探しているように見える。


「燃えてるみたい」


 ひと際目立つ赤い瞳。遠くからでも感じる、燃えるような眼光にルカはたじろいだが、唯はお構いなしというように、近づいていく。


「星宮さん、危険だ! そいつは……」


「ワン!」

 もう一度、黒犬は吠える。その瞳はたしかにこちらに向いていて、しかし、冷ややかな視線な気もして、意図は見えてこなかった。



 そんなルカの迷いを終わらせるように、黒犬が途端に動き出し、屋上へ階段を上っていった。


「ルカ君、行くよ!」


 迷いのない唯はカバンを放り投げ、黒犬とほぼ同時に走り出す。


「でも、さすがに帰らないと!」

 ルカはくちびるを噛む。自分で言いながらも、無意味だと感じた。もっとマシな理由は思いつかないのかと、自分に呆れた。


「今はそんなことどうでも良いよ! なんだか、嫌な予感がする!」


 唯はもう、ルカのことは見ていなかった。ただひたすらに、真っすぐに黒犬が行った方へ駆けあがっていく。



 屋上までは、すぐについた。普段は安全のために鍵がかかっている分厚い扉は、開き切っている。柵はなく、強い風がしきりに吹いていた。


「……誰」


 ルカには聞きなれない、女子の声。


 扉から出ると、目の前にさきほどの黒犬がいた。そして、さらにその先には制服姿の女子。

 ぼさぼさの黒い長髪が、風でさらに乱れている。碧い目が髪の隙間から見え、目の下のクマが目立つ。頬はこけ、すぐにでも倒れてしまいそうだった。


 不安そうだった碧い瞳が、優しい眼差しに変わる。


「唯じゃん、いつもの補修はどうしたの」


 酷くやつれているその姿とは全くそぐわないような明るい声が、ルカには不気味に感じた。

 唯は両手をゆっくり上げる。距離は十メートル、助け出そうとするには難しいくらいの距離。


「補修は事件のせいでお休み中だよ、莉音りおん。久しぶり」

「あー、そうだっけ……」


 ルカは唯を見た。右足を後ろにし、いつでも駆け寄れるように準備している。


 慎重に、丁重に、間違っても莉音の気が変わって落ちないよう注意深く、少しずつ近づく。


 しかし、莉音は段差を一つ上がり、後ろに下がる。黒犬が大きく吠えた。莉音の背後は、何もない空間。

「それで? となりの君も導かれた人?」


 唐突に声を掛けられ、ルカの身体が固まる。


「導かれた、ですか?」

「……なんだ、違うんだ」


 後ろにじりじりと下がっていく。革靴の残りどれだけが地面を踏んでいるのか。


「ダメだよ、そんなことしたら」


「私、言われたこと覚えてるんだ。導かれた人以外は、みんな嫉妬して、私のことを止めようとするって」


「嫉妬……」

 莉音にとって、今の彼女の状態は人よりも優れているのだと思っているのか。人間から羨まれ、そねまれ、ねたまれる状況だと思っているのか。



 すると、どこからともなく黒い埃や塵が、莉音の身体の周囲を漂い始めた。


「なに……?」


 唯の動揺した声を笑うように、やがてそれは微振動しながら纏まっていき、まるで生き物のように蠢いていた。

 そして蛇のようにくねらせながら、身体に噛みつき、蝕んでいく。身体の欠損が始まっていた。それなのに。


 莉音は痩せた頬を紅潮させた。夕日に照らされ、顔が茜色に染まってもわかるくらいに、恍惚とした表情を浮かべた。


「ああ、これで私は……


 身体の重心が後ろに移動する。つま先が浮き、傾いていく。強風が、その自殺を補助するように、吹いた。


 そのとき、一粒の涙が、空に、今となっては無意味に、舞っていくのを、ルカは見た。


 莉音が泣いているのを、見た。


「なんで――」


 刹那、唯が駆ける。数秒。

 それだけあれば、天使候補生として千年に一度の逸材と言われる星宮唯には十分だった。


 唯が莉音に向かって手を伸ばす。ルカはそこでようやく走り出した。


 しかし、唯は莉音の手を握ることはできない。

 手を伸ばした先には何もなく、莉音の身体は地平線と平行になる。



 ルカの脳裏に最悪の結末が過る。唯だからこそ非常に高い可能性で起こる、死が重なる結末。


「――――させない!」


 唯も後を追うように、一切の躊躇なく、頭から飛び込んだ。ルカは段差を上る。一瞬の判断を、迫られていた。


 人間が、死ぬ。


「……っ、星宮さ――」



「呪唱、反対解釈」



 ルカのとなりで、重々しい人の声。声の高さから、おそらく女性の声。

 黒犬が喋っていた。


「〈天網ノまもり〉」


 一瞬にして、黒犬の目の前に、ほのかに光る環が形成される。やがて文字の羅列が環に絡まっていく。微小の光の粒が、環の周りを揺れている。環の中心に、光の粒が収束する。


 閃光。


 か細い光の線が射出される。落ちていく二人よりもずっと速く、校舎を沿うように、空間を縦に貫いて進む。



 莉音を抱きしめていた唯に、光線はあっという間に追いついた。

 身体の少し上で光線は膜状に発散し、二人を優しく覆うように曲線を描く。

 

 そして、二人の真下で再び収束した。高速で落下していた二人は、一瞬にして球状の光の膜で包まれた。


 途端、急ブレーキをかけたかのように、球体の速度がみるみる遅くなっていく。


 ――地面にぶつかるその刹那。挟まった空気が圧縮され破裂することで、グラウンドの砂塵が円の波紋を広げ、光の球が着地寸前で、ふわりと浮き上がる。


 最後は、ゆっくり二人を守りながら地面まで降りた。


 着地すると、花が咲くように光の膜が開く。そして、光の膜は花びらのように空へと散っていった。


 中から、横たわった二人が現れる。即座に、唯が立ち上がるのが見えた。


「…………はあ」


 とりあえず、最悪の結末は避けられたようだった。

 ルカは糸が切れたように、その場で座り込む。おでこから汗が伝った。


「良かった……」


 はんっ、と隣で鼻を鳴らす音がする。黒犬の赤い瞳が、呆れているようにルカを見ていた。


「何者なんだよ、お前」


 ルカの問いに、今は答える気はさらさらないというように、そっぽを向いた。


「わかってる。少しは俺も手伝わないと……だけど、後で話は聞かせてもらうからな」


 ルカは立ち上がり、急いで階段を下りていった。


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